未来のミライ

予告編をみると、子どもの表情が、とにかくかわいい。
それで、ちょっと気になっていた映画だったけれど、劇場で見る機会を逃してしまった。
うれしいことに、早くもWOWWOWで放送…



細田守監督の作品は、「時をかける少女」「サマー・ウォーズ」「バケモノの子」と、
これまでにないセンス溢れるファンタジー世界を、心地よいテンポ感で見せてくれる。映像の細部まで徹底的に描きこまれた繊細さも魅力的で、存分に楽しませていただいている。もっとも、「おおかみこどもの雨と雪」だけは、少し設定が暗くて胸が痛い作品で、何度もみたい気持ちにはなれないものだったけれど…

「未来のミライ」がこれまでの細田作品と違うところは、主人公のくんちゃんが4歳くらいの男の子であること。
この年齢の子どもを描くのはなかなか難しい。くんちゃんに妹が生まれ、両親の愛情が妹ミライに注がれるのが彼にはどうしてもいやで…という発端は予告編などで知っていた。
うん、パターンだ。
でも、細田監督なら、パターンも想定のうちだろう。そのくんちゃんが成長した未来の妹に出会う…いいねえ。きっと話の中心は、既成のパターンをぶち壊すような、ふたりの大活躍になるんだろうな。


■監督の術中に嵌められる

ストーリーをざっと紹介すると…

くんちゃんと両親の住む家は、斜面に立っている3階建てで、階段状に大きく二つの棟に分かれている。
一番低いフロアーが子ども部屋、
中心には大きな木が立つ中庭がある。そして一番高いフロアーが居間。両親の寝室もここにある。父親が建築家だけあって、凝っているのだ。

さて、くんちゃんは生まれたばかりの妹や両親と、たびたびトラブルを起こす。

何か事件が起こると、彼は庭に足を踏み入れる。
その場所は、思いがけない、もう一つの世界に繋がっているのだ。
そこでくんちゃんは、いろいろな人、いろいろな出来事に巡り合う。
成長した未来のミライや、子どもの頃の母親、若いころの曽祖父、どうにも犬っぽい「謎の男」たちと出会ったり、おどろおどろしく入り組んだ鉄道と駅の世界に迷い込んだりする。

意外性に富んだ、リズミカルな展開は、細田作品ならではの愉しさにあふれ、100分があっという間だ。
くんちゃんは生き生きとした四歳児として、いかにもそうだ、という具合に描かれているし、ミライは現在も過去も惚れ惚れするようなかわいらしい美少女。
二人を中心に展開する物語は、やがて「滔々たる時の流れと人の繋がり」という大きなテーマに収斂していく。小さな日常から始まって、気が付くと、大きく広い世界に連れ込まれていく快感と満足感。期待通り、監督の術中にすっかり嵌められている自分に気付くことになる。

■庭の中には何があったか

ただ、手放しで絶賛できるかと言えば…いくつかの疑問がなくはない。

まず感じたのは、「パターンも想定」という印象が外れたことだ。
くんちゃんのミライちゃんへの嫉妬心、これが、意外と後々まで尾を引いて、物語を支える大切なモチーフになっていた。確かに大人にはその方が分かりやすいかもしれない。
けれど、現実の子どもって、そんなもんかな。子どもは親の愛情を無条件に独占したがり、依存する。兄弟ができれば嫉妬の塊…それはかなり、大人の考えるステレオタイプの、そうあってほしい子ども像ではないだろうか。子どもには確かにそういうところがあるけれど、それがすべてじゃない。
そう思いたいのは、案外大人の身勝手みたいなもので、くんちゃんの行動原理がそればかりというのは、見ていてちょっと息苦しい。

その設定は、「庭の世界」そのものも、小さいものにしてしまう。
庭は、はじめのうちはくんちゃんの自由な空想世界に見える。序盤の、ひな人形片付けをめぐる「はじめの一歩」のような、ドタバタの楽しさが展開する遊びの空間。これが、どんどんパワーアップするかと思ったけれど、そうじゃなかった。その後の庭は、さまざまな物たちがけっこう常識的な大人の価値観を教示する、「くんちゃんの学校」になってしまっている気がするのだ。

もちろん、それはそれで感動的な場面はある。
とくに福山雅治演ずる戦後間もないころのエピソードは胸を打つ。でもそれは、「子どもの世界のリアリティ」とは少し距離を置いた、むしろ大人の観客の郷愁を喚起する感動ではないだろうか。
ここにはネコパパの期待する「子どもの視点に立った、親子で楽しめる映画」という要素は希薄で、自分の居場所を確かめたい大人向けの映画なのかもしれない…という思いが浮かんでくる。

それは、場面設定にも表れている。

■痛い家に、痛い台詞

「階段式の家」も「データベースの木」も、
「滔々たる時の流れと人の繋がり」と「人生の階段」を象徴するものとして、イメージ豊かなデザインが施されている。
けれど…
言っちゃおう。
これらも、「大人目線」の造形ではないだろうか。
こんな階段ばかり多い家って、子どもを育てるには危険すぎると感じる。
この建築には、子どもの命を思う視点がない。いや、子どもだけじゃなく、じいじ、ばあばにも、危険じゃないのかな。
野暮なことを言うんじゃないよ、それが表現なんだよと言われるかもしれない。
けれど、「痛い」という皮膚感覚も、表現者にも大切なセンスだと思う。「痛い家」は子育てには向かない。それとも…設計者のお父さんには、子どもが見えていないという含みを持たせているのだろうか。

そしてセリフにも「痛さ」を感じるところが…
「こんなささいなことがいくつも積み重なって、現在のわたしたちを形づくっているんだ…」
終わり近く、高い空の上から、人々の人生の断面を見下ろしながら未来のミライがくんちゃんに語る、そんな台詞を聞いて、
一緒に見ていたアヤママがつぶやいた。
「ささいなこと?くんちゃんのひいおじいちゃんは、戦争中海で特攻させられて、生死を切り抜けたんだよ。それをささいなことと言うのはおかしくない?」

そうだ。
村中季衣さんなら、きっとこう言われるだろう。
「子どもには、ささいなことなんて、ひとつもないのよ」
俯瞰の視点に立てば、一人の人生はささいなことかもしれない。
でもそれは大人の視点、子どもにはもっと違うものの見方があるのではないだろうか。

色々書いてしまったけれど、この作品、一見の価値はあります。
たくさんの人が見て、いろいろな観点で議論してほしい。
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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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