日本児童文学学会・日本イギリス児童文学会合同例会報告②

だいぶ間が空いてしまいましたが、9月8日に開催された日本児童文学学会・日本イギリス児童文学会両中部支部合同例会の報告の続きを書きます。
前回の記事はここです。
この会では重い問題をぶつけられたので、逃げ腰になっていました。ネコパパの弱いところです。
でもちゃんとしなきゃ。

【研究発表2】
自己理解と他者理解を育む絵本の世界―多文化共生社会の実現を目指して
新居 明子(名古屋外国語大学・日本イギリス児童文学会会員)

■概要

現在の日本では、少子高齢化による日本人人口の減少とグローバル化の急速な進展に伴う外国人人口の増加を背景として、多民族・多文化が共生する社会づくりが今後取り組むべき大きな課題となっている。多文化共生社会の実現を目指すうえで必要となることは、大人だけでなく次代の日本社会をになう子どもたちの多文化理解を促進することである。そのためには、まずは子どもたちに自己理解を通じて他者を理解する道を示すことが重要だと思われる。

本発表では、社会共生のための自己理解・他者理解の入口として、幼児や小学校低学年児童にとって親しみのある絵本という媒体の活用を提案したい。

そこで、まず共生社会実現に向けた取り組みや課題について触れた後、教育現場における絵本の活用例を紹介する。そして『はなのすきなうし』(1936)、『じぶんだけのいろ―いろいろさがしたカメレオンのはなし』(1975)や、『わたしとなかよし』(1990)、『きみのかわりはどこにもいない』(1999)、『ええやん そのままで』(2009)等の絵本を取り上げ、これらの作品の持つ魅力と可能性を考察する。

■アンチバイアスを育てる五冊

新居氏の専門は中世英文学だが、グローバル共生社会研究所の責任者に任命されることでこのテーマに取り組むことになったとのこと。
多文化共生を学ぶのに絵本の活用は有効である。アメリカで1989年に提唱された「アンチバイアス教育」=バイアス(偏見)にとらわれないための教育の一環として、教育現場における絵本の活用を提案する。
ポイントは絵本を通しての異文化理解である。
自己理解(自己肯定)を育むことから他者理解に向かう流れを導く可能性が豊かな作品ということで、5冊の絵本が例示された。

はなのすきなうし 1936



フェルディナンドのマイペースさと周囲の理解⇒個性尊重(幸せの形はひとそれぞれ)

じぶんだけのいろ-いろいろさがしたカメレオンのはなし 1975



個性についての逆説的な解釈⇒個性尊重(ありのままの自分を受け入れる)

わたしとなかよし 1990



自分大好き、前向きなメッセージ⇒自己肯定(自分を大事にする)

きみのかわりはどこにもいない 1999




マタイ伝福音書を表情豊かにアレンジ⇒自己肯定・他者肯定(ひとりひとりの大切さ)

ええやん そのままで 2009



28種類の「大丈夫」⇒自己肯定・他者肯定(みんなちがってみんないい)

■ネコパパ感想

アンチバイアスという観点で絵本を選び分析する。
結果、実践の場で有効と思われる、魅力的な5冊が紹介された。
そのこと自体はよいことだが、
観点を「教育の場での活用」に絞っていることで、絵本そのものの持つ豊かさや楽しさがとりこぼされてしまうのではないか…という懸念も感じた。

作品の豊かさ、楽しさ、面白さに対して、「自己肯定」とか「他者理解」とか「個性尊重」という言葉は、いかにも味気ない「教育用語」と感じられる。
現場の教員として、このような言葉に日常的に触れてきたネコパパであるが、星の数ほどあるこの種の用語を魅力的だとか豊かだとか感じたことは、正直、あまりない。
教育論文や指導案や単元目標では、さんざん使う。
便利といえば便利である。
道徳指導の研究に、教員生活のそれなりの時間を費やしてきたネコパパ自身も、重宝がって多用してきたから、人のことは言えない。
あくまでこれらは教育関係者限定で「戦略的」に使う用語で、実際の現場運用は、柔軟、かつ「変幻自在」であるべきだと考えてきた。
だから…表現や文学のデリケートな部分を語る言葉としては、どうしても繊細さが欠如し、情理を尽くした感じがしない「みもふたもない」感じが付きまとう。

新居氏自身、質問の場では「教育効果を前面に出すような紋切り型の講義はなるべく避けて、受講者にはとにかく内容の良さを伝えることにしている」と話されていた。

それでも今回のような「研究発表」となると、はっきり前面に出てきてしまう…ということなのだろう。
こうした「教育用語」と、文学を語る言葉との兼ね合いをどうしていけばいいのか。

このあとのラウンドテーブルでは、まさにその「教育」と「文学」の境界をどうするのかが論じられることになった。


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コメント

コメント(2)
No title
どんなに魅力的な音楽でも、音楽科の授業で聴くと、詰まらないのが教育ってもんじゃないのかしらん。教育を詰まらないって思う感性は、やがて、じぶんじしんで見付けるブルックナーやマーラーの楽しさに繋がるって気がするんです。ぼくは、教育に必要なのは、反面教示じゃないかとも思うんです。ぼくは小学生のとき、あんな先生になりたくない、ぼくならこんな先生になるとじぶんで教師像を作りました。中学でも、高校でも、大学でさえも……。で、めでたく、いま、教員してみて、反面教師になっているじぶんに気づきます。でも、それでいいんじゃないかしら。言うことをキカセラレル教師と素直にキク子どもとが集合するのが、最悪だと思うのは、もう年のせいでしょうか。

シュレーゲル雨蛙

2018/11/22 URL 編集返信

No title
> シュレーゲル雨蛙さん
雨蛙さんは成熟した子どもだったのですね。私は反面ではなく、いい先生か、その他かどっちか、という感じでした。形式的でなく、個性的であれば学生はついてくるのではないでしょうか。雨蛙さんの普段の授業が聞いてみたいものです。

yositaka

2018/11/23 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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