ワルターの田園①ルガーノにて


フルトヴェングラーが作家へルマン・ヘッセに捧げ『田園』を演奏した、スイス・ルガーノ。
ここに、もう一人の指揮者の物語があった。
ブルーノ・ワルターである。


―ワルターは戦前より日本の音楽ファンにとってフルトヴェングラー、メンゲルベルクと並ぶ大指揮者でありました。1876年9月15日にベルリンに生まれ、九歳でシュテルン音楽院に入学し、作曲とピアノを学んでいます。翌年には初めてのリサイタルを行うほどの楽才をしめしたワルターは、1889年、13歳の時にベルリン・フィルハーモニーと共演。モシュレスのピアノ協奏曲を弾いて、本格的にピアニストとしてデビューします。しかしこの年、ワルターはハンス・フォン・ビューローの演奏会を聞いて強い衝撃をうけます。そしてワルターはピアニストから指揮者へと人生の舵を切ったのでした。


「スイス音楽紀行」 http://www.asahi-net.or.jp/~RD6Y-TKB/Swiss_music_index.html
から。執筆者はTOKUさん。
ここに、ルガーノ・ヘッセ・ワルターを結ぶ物語が語られている。
一部抜粋・引用させていただく。すばらしい文章なので、ワルターに関心のある人はぜひ全文をお読みになることをおすすめしたい。



TOKUさんは、指揮者としてのワルターの経歴を、簡潔、かつ愛情を込めて綴られている。そこには、
1893年、十七歳の時に作曲した「海は凪いで」という合唱とオーケストラのための作品が、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会で初演されたことで、音楽家としての頭角をあらわした、といった、今まであまり耳にしなかった事実や、
スイスの指揮者兼作曲家のフォルクマール・アンドレーエとの親交、第一次世界大戦後は毎夏スイスを訪れ、多くの音楽家や文人と親しく交友を結んだことが記されている。
1932年、ナチス台頭以降のワルターの苦難の運命についての丁寧な記述のあと、記事は再びワルターとスイスとの重要なつながりを語っていく。ライプツィヒの地位を追われ、ウィーンを活躍の舞台に移した彼に再び危機が。



―1936年にウィーン国立歌劇場でワーグナーの「トリスタンとイゾルテ」を演奏中に悪臭を放つガス弾が投げ込まれるという事件も起こり、ユダヤ人のワルターに対するナチスの嫌がらせは日に日にエスカレートしていったのでした。
この頃、ルガーノの一角に娘のロッテが家を購入しています。スイス、特にティチーノ州はツェルマットやグリンデルワルドのように日本人が押し掛ける観光地ではありませんが、ドイツ人には特に好まれるところで、引退してここに住んでいるというドイツ人はかなりのものでしょう。気候が温暖で、冬も雪に閉ざされることの無いアルプスの南側は、北の国の人々にとって、ゲーテの名作の中でミニヨンが歌う「ご存じですか、レモンの花咲く国」の歌詞の通り、アルプスの南側は永遠の憧れの象徴なのでしょう。



やがてナチスはオーストリアを併合。ワルターは、ニースを経由し、スイスのルガーノに脱出。しばらくはスイスに滞在し、トスカニーニやブッシュ兄弟と共にルツェルン音楽祭にも招かれ、祝祭オーケストラを指揮。弦のそれぞれのトップにはブッシュ四重奏団の面々が座ったという。やがてフランス国籍を得て、ルガーノから、フィレンツェやパリ、そして友人のトスカニーニの招きでニューヨークに赴いたり、活動を少しずつ広げていく。
しかし1939年の8月、次女のグレーテルが夫に射殺されるというよく知られた悲劇が起こる。そのグレーテルが埋葬されたのがモンタニョーラの聖アボンディオ教会の墓地であった。
直後、ドイツはポーランドに侵攻し、大戦が始まる。ワルターはルガーノの家を出て、10月の末、イタリアのジェノヴァからアメリカに向かう。アメリカで精力的な活動を続けるワルター、その名声は広がる。しかし、労苦を共にした妻エルザが、1944年の夏、卒中で倒れ、翌一1945年の3月永眠。戦争が終わった翌1946年に、ルガーノの家に戻ったワルターは、グレーテルのお墓に妻のエルザの遺骨を納める。
チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団に客演したワルターはマーラーの交響曲第4番「大いなる喜びへの讃歌」を演奏。
1955年。スイスのダヴォスで「魔の山」という小説を書いた、かつての反ナチズムの闘士、トーマス・マンの80歳の誕生日の記念演奏会では、トーンハレ管弦楽団を指揮してモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を演奏。
1962年の年があけ、春の声がまだ届くか届かないかの時期に、ワルターはビバリーヒルズの自宅で85年の生涯を閉じ、遺骨は「もう一つの家」であったルガーノ近郊の聖アボンディオ教会の墓地に、妻のエルザ、次女のグレーテルとともに葬られた。今では、長女のロッテもここに眠る。


夏の暑い日、ワルターの墓参りに訪れたTOKUさん一家の報告は、大変感動的だ。
モンタニョーラの教会とだけ知っていたTOKUさんは、レストランでくわしい場所を尋ねてみる。しかし、人々は、ヘッセはよく知っていても、ワルターの名は知らない。あちこち探すが、見つけることができない。せめてヘッセの墓地を見ようと聖アボンディオ教会へむかう。



―夏の日差しが強い、暑い昼下がりでした。私は家族でお墓を見て回ったのでした。しばらく行くと、自然石を使ったヘッセのお墓がありました。ふとその時、モンタニョーラに住んでいたヘッセのお墓があるくらいだから、ワルターのお墓もここではないかと思い、家族で探し始めました。ほどなくして妻の「あったよ、お父さん」の声が。
行くと、一日探し回ったワルターのお墓にはそこにありました。意外にも小さなお墓でした。悲劇のグレーテルやロッテといった娘とそして最愛の妻とともに、この明るいルガーノの墓地に眠っていたのです。彼は1939年のチューリッヒでの悲劇的な事件を決して忘れることはなかったのでしょう。
前半生の順風満帆の人生に対して、後半生は彼に過酷でありました。しかし常に微笑みを忘れず、「歌って!」と指揮台からねばり強く導いたワルターは、おそらくはそれ故に、深い深い心の歌を私たちに届けてくれたのではないでしょうか。…スイスにおいて、スイス・ロマンド管弦楽団やトーンハレの舞台に何度か立ったとはいえ、フルトヴェングラーのように深い関係を築いたのではなかったワルターですが、永遠の眠りを平和で美しいこの国で得たことを、私は心から「良かった」と思っています。本当のワルター・ファンの方、ぜひお花を持って訪れてみられてはいかがでしょうか。



晩年、アメリカで残されたインタビュー映像がある。『ブルーノ・ワルターザ・マエストロ』だ。

ビバリーヒルズの自宅の庭で、いきいきと語るワルターの姿をが記録されている。
彼は、自然の美しさを知らずに『田園交響曲』を演奏することはできず、人の愛を知らずに『トリスタンとイゾルデ』を演奏することはできない、と語っている。そして同時に当時音楽的に一つの最盛期を迎えていたジャズに対しては、憤るように否定的な見解を語ってもいた。
彼の心は、終生アメリカという国、アメリカという文化になじまなかったのだろうな、という気がしてくる。
そんな彼が、愛する家族と共に選んだ永眠の地。そこがかれの人生の悲劇を見つめたスイスの地だったことは、象徴的だ。
彼と、最愛の家族の眠るルガーノの墓地は、彼の演奏する『田園』にもっともふさわしい風景の広がる場所のように思う。
いつか、訪れる機会があるだろうか。

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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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