日本イギリス児童文学会中部支部春の例会報告①A Monster Calls



4月22日、中京大学で行われた「日本イギリス児童文学会中部支部 2018年度春の例会」におじゃましてきました。
内容は二つの現代ファンタジー作品についての研究発表と、愛知大学文学部 人文社会学科准教授の小野 賢一さんの講演でした。
いずれも大変興味深い内容でしたので、例のごとくネコパパに理解の及ぶ範囲でご報告したいと思います。

日本イギリス児童文学会中部支部2018年春の例会
日時: 2018 年4月22 日(日)13:00~17:20 
場所:中京大学 名古屋キャンパス(名古屋市昭和区八事本町 101-2)



プログラム
13:00~13:05    
開会あいさつ 支部長 戸田山 みどり会員(八戸工業高等専門学校) 
13:05~13:45   
研究発表 1 クマイ 恭子 会員 (名古屋大学大学院 国際言語文化研究科後期課程、南山大学非常勤講師)            
「生きるための受容と手放し- A Monster Calls におけるコナーの「影」に起因 するトラウマの緩和とモンスターの機能-」
13:55~14:35    
研究発表 2 渡辺 美樹 会員(名古屋大学 人文研究科)           
「 The Graveyard Book を読む-サイラスの役割について-」 
15:20~17:20    
講演会 小野 賢一 先生(愛知大学 文学部)
「12 世紀のプランタジネット朝と教会」 
18:00~
懇親会 「みやび家」                 
  
研究発表 1 
 「生きるための受容と手放し- A Monster Calls におけるコナーの「影」に起因するトラウマの緩和 とモンスターの機能-」
クマイ 恭子 会員 (名古屋大学大学院 国際言語文化研究科後期課程、南山大学非常勤講師)






【発表概要】
A Monster Calls は、主人公である 13 歳の少年コナー(Conor)による母親の死の受容と手放し、 自らの「影」の統合によるトラウマ緩和の物語である。
コナーには末期ガンで死にゆく母親がいる。 コナーは母親に生きて欲しいと切実に願う。同時に期待だけにすがる日々を終わらせたいと(つまり母の死を)願うが、その「影」の部分を抑圧する。コナーは「影」の存在を否定するが、常に「影」 に起因するトラウマと自責の念が付きまとう。本発表ではコナーの手放しによる、影から派生したトラウマ緩和までの経緯、およびコナーが生き延びることを可能にしたモンスターの機能に光をあて分析する。 

■語り手、聞き手、癒し手としての「怪物」

「怪物」(モンスター)の語源はラテン語のモンストラーレ、デモンストレーションにも転じる「目に見えるように提示する」意味がある。
この物語に登場するイチイの木の怪物は、子どもの非理性的な心理状態をあらわすとともに、内的成長の契機となる「影」として象徴的に描かれている。

怪物が現れるのは主人公の少年、コナーの悪夢の中だ。
母親を食べようとする怪物は、死の床に臥している母親に対する「早く終わって欲しい」と密かに母の死を願う影の本心、ネガティブな心理が形となったものと読み取ることができる。内に抑圧され、ときにはコナーが引き起こす衝動行為の根源にもなる。それゆえ「怪物」の姿をしているのである。
一方、怪物にはそれとは別の、真の目的があった。二律背反する少年の自己を統一させ、母親の死に伴うコナーの心的外傷を癒すことである。

怪物はコナーや母親を襲うために現れるのではない。
コナーに、物語を語り聞かせるためにやってくるのである。「物語る」ことは心的外傷の緩和に必要な行為で、怪物が出現し、コナーの気持ちを物語に変換してくり返し語ることは、コナーの内部で始まっている問題の自覚が次第に深まっていく過程ととらえることができる。

怪物がコナーに語るのは、三つの物語。
どれも昔話のように見えるが、どれも結末はすっきりしない。
一つ目は昔話のような王子と魔女の物語だ。女王は善良な魔女であり、同時に邪悪な魔女でもあった。そして王子は殺人者であり、同時に救世主だった。
この話には予想されるような悪の滅びも救済もなく、コナーには到底受け入れることができない。
二つ目は薬剤師と聖職者の話。薬屋は欲深い人間だったが、正しい考えの持ち主だった。一方司祭は身勝手な人物で、それと同時に思いやりのある人物だった。怪物はコナーの予想した結末に反して、司祭館をめちゃめちゃに破壊したと語る。
この話は周囲とうまくいかないコナーの現実生活とリンクする。彼は、預けられた祖母の家での生活が我慢できず、破壊行為に走る。
母と離婚している父が駆けつけ片付けを手伝うが、コナーの期待する「罰」は与えられない。
三つ目は、誰からも無視される男の話。これはコナーの学校生活と重なり合う。狡猾なハリーのいじめに対して突発的な加害行為に走るコナー。それは他の生徒を怯えさせ、コナーの孤立は深まっていく。

一方で刻々と進行する母親の病状。
最後に残った治療法も効果がないことがわかり、それでもなお母の死を受容できないコナーだが、母もまた同じく、息子との別れが迫るという事実を告げられない。
コナーは怪物を呼び出し、母の救済を願うが、怪物は救済されるべきは母ではなく、コナーであると語り、コナーの内に秘めた真実を語るよう迫る。その真実を語った時、コナーは怪物を抱擁し、母の手を話す。第四の物語は、コナーが自分の影の部分を解放に成功する物語だったのである。

■ネコパパ感想

クマイ氏の研究は、物語の持つ心理療法的な一面を捉えて分析したもの。物語の進展がそのまま主人公の葛藤、心的外傷の緩和、自己の開放に向かう一筋の流れを明確に解き明かそうとする試みである。

このようなアプローチは、河合隼雄が1978年と79年に岩波書店のPR誌『図書』に発表した『ゲド戦記』と『モモ』を題材にした論考ではじめて試みられ、以来、河合は晩年まで精力的に児童文学の分析に取り組みつづけた。
私は文学研究にこのような切り口があることに、当時から新鮮な驚きを感じ、片っ端から読んでいったのだが、実証性や普遍性という点ではやや特殊なアプローチであり、誰もが使いこなし、継承できる方法とは言えないのでは、とも感じていた。
それだけに、クマイ氏のような若手研究者の取り組みはたいへん心強い。

今回取り上げられたバトリック・ネス(シヴォーン・ダウド原案)『A Monster Calls 怪物はささやく』(2011)は、そのような心理学的な読み解きにふさわしい構成を持ったテクストであり、今回のご発表をお聞きして、細部までしっかりと筋の通った、説得力十分な分析と感じられた。

一方、実際に作品を読んでみると、どちらかといえばコナー、母、怪物の三つの主要な柱と怪物の話す三つの物語の部分と、コナー、祖母、父、それにハリーとコナーを気にかけている幼馴染のサリーが織り成す現実生活の部分の印象が、うまく噛み合っていない印象もあった。
少なくともネコパパには、ファンタジーを交えた心理描写中心の前者よりも、いろいろな人物の思惑が交錯する後者の部分の方が、読者として想像を刺激される場面が多かった。
例えば、ときにはただのいじめっ子とは思えない言動をする策略家ハリー。彼は表面は非の打ち所のない優等生なのに、コナーにだけは陰湿、という謎めいた描き方がされている。それがかえって魅力的で、辛気臭いコナーと「怪物」の場面よりも、小説を読む楽しさが感じられる人物である。
構造分析だけでなく、このような「読む楽しさ」の内実にも、心理療法、あるいは心理学的アプローチで迫っていくことは可能ではないだろうか。
クマイ氏の研究の一層の進展に期待したい。

余談ながらこの作品、数奇な生まれ方をしている。
1960年生まれで、2007年に惜しまれつつ早世したイギリスの児童文学作家シヴォーン・ダウドの遺した構想メモをもとに、より若い世代のアメリカ生まれの作家パトリック・ネスが執筆したものだ。二人には面識がなく、ネスに依頼したのは編集者である。
ダウドといえば『ボグ・チャイルド』という、国境問題、民族問題にタイム・ファンタジーの味わいを加え、時空を自在に行き来する眩いような作品が印象に残るが、あれがダウドの遺作だった。



多彩な題材を、僅かな綻びも見せずに紡ぎ上げた、「ボグ・チャイルド」の熟達の技と比べると、『怪物はささやく』は、正直、現実空間と非現実空間にやや隙間があるのが感じられた。
二作の表現の違いを検証することで、ダウドのファンタジー表現成立の手がかりが得られるのかも知れない。
関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメント(0)
コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

ご訪問ありがとうございます

月別アーカイブ

検索フォーム

QRコード

QR