「ピーター・ラビット」を多様に、そして「迂闊に」読む

日本児童文学学会・日本イギリス児童文学会両中部支部 9月合同例会報告②

■研究発表 2

ピーター・ラビットという体験
山口 均(愛知学院大学)

<発表概要>
「昔々四匹の仔兎がいました。名前は…」と素朴に始まる小さな物語The Tale of Peter Rabbit(1902)は、ジャポニスムの文脈など周縁的な研究も進んでいるようだが、テクスト自体(絵を含めた「イコノテクスト」)の読みにもまだまだ可能性が残されているのではないだろうか。
作者Beatrix Potterが「暗号」で日記を書き続けたことはよく知られているが、この物語はなぜ“Once upon a time...”と語り始められるのだろうか、兎一家はなぜ「大きな樅の木の真下」に住んでいるのだろうか、など最初から多くの「謎(暗号)」が隠されている気がしてならない。(例えば、樅の木について言えばfir(樅の木)=fur(ふさふさの毛皮)というよく指摘される言葉遊びを超えて、これを「宇宙樹」だとするとどのような光景が表れてくるだろうか。最初の頁だけでも12個の「謎」を提示したい。)
発表者は、一年間をかけてこの物語を読む「初年次教育」の授業を担当しているが、その実践報告も含めて、「マグレガーさん」とは一体誰なのかという問い、絵とテクストの心地よい緊張関係の読み解き、そして絵本ならではの「繰り返し読み」がテクスト理解に及ぼす効果など、本当の意味での「仕掛け絵本」とでも呼ぶべきこの小さな物語が持つ(もう少しだけ)大きな読みの可能性について考えてみたい。




■多様な「読み」の愉しみ

この例会が行われたちょうどその日、名古屋市博物館で「ピーター・ラビット展」が始まっている。山口氏はその展覧会のチラシから発表の口火を切った。
チラシの図像に「TM」という小さい符号が書かれている。ピータ・ラビットという名前、ピーターの絵の足元にも小さく。そして作者ビアトリクス・ポターの右上にも小さく「TM」。
TMはTrademarkの略語、「商標」である。商品名でなく個人名に商標を付すのは珍しい。それだけ作者も作品も「商品化」している。
「ちょうど今、同じ時間に、ポター研究の権威者河野芳英氏が博物館で記念講演中です。権威者となると迂闊なことが言えないが、そうでない私は迂闊なことを言いたい」と、山口氏、続いてピーターラビットを描いたお皿を取り出す。
5枚で「ピータ・ラビットのお話」の物語になっている。しかしこれは、絵本と話の順番が違う。正しい配列は、これ。ポターが最初に描いた私家版ではまた違っている。読者にとっての意外性、最初に結末を割ってしまう意外性、いろいろ試していることがわかる。ピーターラビットはポターの「仕掛け絵本」と見ることができる。

作者は読者に向けてたくさんの謎を投げかけている。
最初の一頁だけからも多くの「謎」が引き出せる。
授業で学生に示すのは、12の謎だ。




この物語はどうして「昔々あるところに」と始まるのだろうか
どうして「四匹」のコウサギなのだろうか
どうして「ピーター」だけが普通の名前なのだろうか
どうして四匹の名前は「右下がり」に書かれているのだろうか
一家はどうして「大きな樅の期の真下の砂地の巣穴の中」に住んでいるのか
どうして「樅の木」なのだろうか。
樅の木はどうして下の方しか描かれていないのだろうか
挿絵のコウサギはどれが誰だろうか(ピーターはどれだろうか)
「お母さんウサギと一緒に住んでいました」とはどういう意味だろうか
お母さんウサギだけがどうして名前が無いのだろうか
最初のページでウサギ一家はどうして服を着ていないのだろうか
お母さんウサギは何を見つめているのだろうか

謎をどう解釈するか。その一部分を例示してみよう。 
①…昔話のパロディ化を意図している。
③…ピーターの名はマザーグースの「ピーター・パイパー」から付けられた。ポターの飼っていたウサギは他のウサギと違って鳴き声をよく出したから「パイパー」とした。
④…絵の配列と文字の配列を合わせるため。17世紀から詩によく使われ始めたコンプリート・ポエトリーの手法を生かしたもの。
⑥…ポターは自分の元家庭教師アニー・ムーアとその家族と親しく、1893年9月4日にはアニーの5歳の男の子ノエルにウサギの話を送った。それが『ピーターラビットのおはなし』の原型。ノエルと名づけられたのはクリスマスイヴが誕生日だったからで、樅の木はそれに因むもの。さらにイメージを広げるなら、生命を生み出す源である「宇宙樹」の象徴とも、読み取ることができる。

■マクレガーさんとは誰か?

ピーターの天敵として登場する農夫。これはスコットランド人の典型的な名前で、読者であるイングランドの子どもたちにとっては国境外に住む「異人」。これだけで「怖い人」である。でもポターは、恐怖心を和らげるために仕掛けをする。ピーターの隠れたジョウロでなく、植木鉢を探すマクレガーさん。命がけの追いかけっこを、おじいさんの孫のごっこ遊びを思わせる雰囲気へと和らげるポターの工夫が見て取れる。




コマドリは何者か?
テクストには言及されない。ピーターにも見えていない様子で、登場人物のようでそうでない。センダックはこれを「読者の目になった守護天使」と解釈している。

ピーター・ラビットと「E.T」
スピルバーグの映画で「E.T」では、「ピーター・ラビット」の明らかな引用が認められる。エリオット少年がE.Tと遭遇する場面。樅の木にウサギの姿。そしてジョウロ。ここにも普遍化された体験としてのピーター・ラビットを見ることが可能である。

ピーター・ラビットの絵は言葉に先行するイラストレーションである。
イラストレーションの語源は「上から光を当てる」こと。光の当て方によって多面的な解釈を引き出し、新しい体験も引き出す。ポターの絵本はそんな魅力を秘めた作品群である。

■ネコパパ感想

「ピーター・ラビット」の絵本は、本の魅力もさることながら、作者ポターの人生も波乱と変化に富んで魅力的だ。それもあって、作品そのものよりも、伝記的事実のほうに引き寄せて語られることも多かったように思う。
ところが山口氏の研究は、ほぼ、絵も言葉も含めての「テクスト」から発想していくもの。
まずは、作品そのものをじっくりと見つめる。
そこから、どれだけの可能性が引き出せるのかを熟考する。

そこには作品を「作者のもの」である以上に「読者のもの」と見る視点が強く出ている。
絵本、児童文学というジャンルが、本来は作者を意識しないで、自由に受け止められる本質を持った媒体であることを思えば、
これは当然の姿勢といえるかもしれない。
山口氏が、軽やかな口調に載せて行っている大学での「ピーター・ラビット論」は、きっと知の冒険心にあふれる、刺激的で愉しい講義に違いない。
それは、これまで「本を深読みする」面白さを知らなかった学生たちを開眼させているはずだ。
ネコパパも、学生として聴講したくなってしまった…

でも冒険は、危険を内包している。危険があるから冒険なのだ。
100人の読者がいれば100通りの解釈も許容されそうな、こうしたアプローチを、学術的にも確固たるものにしていくのは決して簡単じゃない。
ハードルはとても高い。
ときには博覧強記を武器に押し通る。
山口氏が言われる「迂闊」とは、そのあたりの危険をよくあらわした言葉だろう。
でも、ネコパパは、こういうのはとても好きだ。
ちょっとワガママも入るけれど、良い意味で「迂闊な読み」。
断固、支持したい。

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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