大人に贈る子どもの文学

大人に贈る子どもの文学 
猪熊葉子
岩波書店 発売日: 2016/08/31




<目次>

はじめに 人は夢見、希望し、幸せになる

1 子どもの本とわたし
  本の虫読書をはじめる
  児童文学研究者への道

2 子どもの本を大人が読むということ
  「ハリー・ポッター」という事件
  クロスオーバー・フィクション

3 子どもの文学の書き手たち
  ルイス・キャロル――現実からの逃避
  ローズマリー・サトクリフ――欠落感を償う
  フィリパ・ピアス――日常経験の洞察者
  メアリー・ノートン――社会への批判精神

4 子どもの文学の特質
  子どもの文学は単純か
  幸福を描く物語の世界
  ファンタジーとリアリズム

5 大人にすすめたい物語
 *ファンタジーの作品から*
 風にのってきたメアリー・ポピンズ/ホビットの冒険/指輪物語/ゲド戦記/「この世の時間の外」  の国 トールキンとル=グウィン/ピーター・ラビットの絵本/たのしい川べ/ドリトル先生物語/   シャーロットのおくりもの/クマのプーさん/人形の家/マリアンヌの夢/グリーン・ノウ物語/    海のたまご/トムは真夜中の庭で/時をさまようタック/星に叫ぶ岩ナルガン
 *リアリズムの作品から*
 トム・ソーヤーの冒険/ハックルベリー・フィンの冒険/宝島/若草物語/クローディアの秘密/   秘密の花園/エーミールと探偵たち/まぼろしの小さい犬/ぼくはレース場の持主だ!/ランサ   ム・サーガ

おわりに 自分の人生にイエスといえる幸福


■子どもの文学の価値立証をめざして

猪熊葉子は、英米児童文学の翻訳者であり、長年大学で教鞭をとってきた児童文学研究の第一人者である。
イギリスのオックスフォード大学に留学し、「指輪物語」の著者、J.R.R.トールキンに指導を仰いだ、日本人としては唯一の人でもある。
そんな筆者が、子どもの文学を「大人に贈る」ために著したのが本書だ。
東日本大震災とそれに続く原発事故、さらにはリーマンショック以降続く経済的混迷の中で、将来に希望が持てない私たちに、有効な癒しの方法があるのだろうか…
著者が思い当たった方法はひとつ。
長らく関わってきた「子どもの文学の価値=人生を肯定し、生きる希望をもたらす文学であること」を立証し、世人に認めてもらう行為だった。

■本によって生き延びた子ども時代と孤軍奮闘の学生時代

猪熊は1928年生まれ。父は外科医で、母は幻視の歌人として著名な葛原妙子である。
幼少から読書好きであった筆者は、小学校に入ったころから両親の不和を感じ取る。父母の葛藤は精神的な負担となり、自家中毒など心身症の症状を引き起こすに至る。愛することも子どもを育てることも知らず文学に傾倒している歌人の母との葛藤のなかで、本の世界に救いを求める筆者。「幸福というものの価値を本のなかで発見する」ほかなかったという歪な状況下で、日常生活から解放されるためにいっそう本の世界に耽溺していく。

幼少期から時読んだ本はすべて記憶にあるかのように、具体的な署名が次々に挙げられるあたりは迫真の筆致だ。
『若草物語』『ケティー物語』『愛の一家』などの家族の愛情を描いた作品に渇きを癒され、『宝島』『巌窟王』『三銃士』など、未知の国の冒険が描かれた作品に生きる希望を膨らませる。

戦後、専門学校から大学に進んだのちも、子どもの文学への興味は薄れることなく、児童文学研究に傾倒。大学院でも児童文学を選び、教授陣の顰蹙を買う。
日本の大学では、児童文学はまともな研究対象とは見做されていなかったのだ。
それでは児童文学の国イギリスで、と留学を志すが、児童文学を単純で幼稚な領域とみなす実情はやはり変わらなかった。
ようやく辿り着いたのがまだ『指輪物語』を書く以前の英文学者J.R.R.トールキン教授だった。1957年の秋、長い船旅でオックスフォードに着いた筆者は、トールキン教授の個人指導を受講することになる。

帰国後も大学内には児童文学研究を受け入れる体制はほぼ皆無。
母校に講師として着任するも、助教授の地位を得るには16年間を要した。白百合女子大学が日本で初めて児童文学専攻の大学院を設立した際に、教授として移籍したのは1990年であった。

本の楽しみや慰めなくして生きのびることはできなかったという子ども時代や,
手探り状態のまま留学した学生時代の孤軍奮闘、
そして保守的なアカデミズムのなかに児童文学研究がひとつの位置を締めていく過程…
本書の最大の読みどころと感じたのはこの第1章、50ページの内容である。

■児童文学を書かずにはいられなかった作家たち

第2章以降は、いわば本書の「本題」で、
作家たちの真髄に迫りつつ、「大人が児童文学を読むことは人生を見直す機会にもなる」という主張のもと、丹念に作品を紹介していく。

その基本的な方法は、作者の人生と作品を結びつけ、「その作品を書かずにはいられなかった」必然を語ることだ。
それは、4人の作家の紹介にスペースを取った第3章の小見出しからもよくわかる。

大学教師として、保守的な常識人として生きざるを得なかったキャロルの、逃避願望から生まれた「アリス」の物語。
幼少の頃発症した病気のために、長い子ども時代を病床で過ごし、大きな欠落感を大人まで持ち越したサトクリフは、歴史の行間に隠れている少年や少女を呼び出して冒険物語を書く事で、その欠落感を補った。
典型的な中産階級の出身だったピアスは、無意識に刷り込まれていた「女の子らしい生活」というジェンダー観の更かしの束縛から逃れる試みとして、男の子を主人公とした物語を書いた…

筆者のこうした立ち位置は、ブックガイド的な第5章でも変わることがなく、
作者と作品は常に不可分のものとして論じられ、紹介されていく。
たとえば、こんなふうに。

「どんなに暗い世相の中にあっても、それを宿命としてあきらめることなく、理想としての人間のあり方を求めることをやめなかったケストナーは、そういう理想を実現できるのが子どもであると考え、子どもの活躍する物語を書いたのです」
ホワイトによれば、ファーンは聞き手であり、翻訳者なのです。それは彼自身が動物たちの声を聞くことのできる人だったからです」

■本の紹介は難しい

「本の紹介」といいつつも、
実際は、作品に反映されている作者の人生や生き方、信条を語る傾向が、かなり強い。それも、客観的というよりは筆者の目を通して典型化、理想化されているように思われる。
大人に贈る」という意識がそうさせたのだろうか。
あるいは「本によって生き延びた」筆者にとって「人生」と「作品」は決して切り離せないものという思いがあまりに強いからなのか。

子ども読者にとって、作品は「テクスト」そのものである。
大人の読者だってそれが本道、と考えるネコパパにとって、このブックガイドは、正直あまり楽しんで読めるものではなかった。作品そのものの魅力よりも、作品に込められた作者の意図や、実人生との照合に傾きがちだからだ。
大好きな作品をたくさん取り上げているのに、
「そう、そう、そうだよね!」
と、相槌を打つ気分になれない。
あらすじを語る筆致が淡々とした説明口調で、どこが「読みどころ」なのかがはっきりしない上に、あっさりと結末まで語ってしまう。
これでは「ふうん…なるほど」とは思っても、
「これはぜひ読みたい」「読まなきゃ!」と意欲を喚起するのは、ちょっと難しいのではないかと思ってしまう。

本を紹介することは、難しい。
第1章に満ちている、児童文学に人生を投じた気概と切実な思いが、第3章以降にも満たされていたら、と惜しまれる。
児童文学研究に関心のある人には、たいへん貴重な一冊ではあるけれど。




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コメント

コメント(4)
No title
どうもyositakaさんの書評を拝見するかぎりでは、さっぱり読もうという意欲が湧いてこないですなぁ。(笑)

『大人に贈る』という標題なのですが、著者はどういう意図で、これらの本を大人に勧めるのでしょう。この著者の方は、ご自身が児童文学というものに、少なからずインフェリオリティ・コンプレックスを抱いているんでしょうかね。
だから、そうではない、大人が読んで意味があるものなのだ、としきりに強弁しているような印象を受けます。作者の生い立ちと作品を関連付けようというところにも、それは現れているような気がします。

みっちのような普通の大人(みっちが「普通」であるか否かという議論はさておいて-笑)が児童文学を読む場合、それは何か特定の目的を持ってではないです。
その作品のもつ魅力に惹かれるか、惹かれないか、が全てなのですが。

みっち

2017/05/26 URL 編集返信

No title
> みっちさん
児童文学研究に多大な実績と貢献をされている方で、学生時代にも随分参考にさせていただいた方ですので、個人的にも期待していたのですが…
「研究の言葉」と「紹介の言葉」はやはり違うのではないかと思います。「研究の言葉」をいかに噛み砕いて平易にしても、またそれが筆者の人生にとっていかに切実なものだったとしても、直球一本で人の心に届くかどうかは別です。
私も気に入った本や映画について、他人に夢中で語った挙句にネタバレし、顰蹙を買ったことが何度もあります。読みたい気持ちを発動させるには、クールさと余裕の戦略が必要なのでしょう。

yositaka

2017/05/26 URL 編集返信

No title
半世紀(以上?)も前にトールキンに師事したというキャリアはすごいですね。

ご紹介に従うと、「児童文学研究の草分け」としての自負と義務感が論調に影響を及ぼしている‥‥ような‥‥当然でしょうけれど。

また我田引水になりますが、私にとってのこの分野の大傑作は、猪熊さんの紹介される『トムは真夜中の庭で』と、その系統(?)にある、ジョーン・ロビンソン『思い出のマーニー』と、アリソン・アトリー『時の旅人』です。
これらからは、‘そこから何かを得る’というような「読書の目的 or 効用」という次元を超えた面白さ、深さを感じました。

『指環物語』、『ハリー・ポッター』、『ゲド戦記』は、長すぎて、たぶん一生手を着けないでしょう(笑;;)。

へうたむ

2017/05/29 URL 編集返信

No title
> へうたむさん
あの時期にトールキンに師事されたのはすごいことです。師事された具体的な内容をもっと詳しく知りたいと思いました。そこも含めて、第1章の内容をより充実させ、ブックガイドはせいぜい半分程度に収めたほうが本としての格が上がったように思います。編集者の責任もあるのでは。

へうたむさんの挙げられた三作は、児童文学の精髄というべき作品でしょう。これを基準として『ハリー・ポッター』を読まれると、当惑されるかもしれません。

私は『ゲド』のかなり熱烈な読者で、繰り返し読んでいます。しかし『ハリー・ポッター』は第1巻を読んですっかり失望し、先を読む気を無くしました。
またトールキンは『ホビット』は好きですが『指輪』はあまりに細部が細かく冗長な気がして、今一つのめり込めません。
猪熊氏はこれらの、まったく違う作品を等しく高く評価されているのですが、これは「どれもみんな好き」ということなのか、それとも別の基準があるのか、そこが今ひとつ伝わってこないのです。

yositaka

2017/05/29 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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