4月30日、恒例のエヂソン・サロンコンサートに行ってきました。
6時30分からのフリータイムでは、マスター二人による色とりどりの音盤が紹介され、6時30分からはメインプログラム、チーフマスター勝原さんの名調子で送る、蓄音機歌謡コンサート、という流れです。
フリータイムでは、ハリー・ジェームズ、トミー・ドーシー、フランク・シナトラ、サラ・ヴォーンなどのジャズやヴォーカル名盤の数々のほか、
名タンゴ歌手、カルロス・ガルデル、名手ぞろいのスタジオ・アンサンブルのオルケスタ・ティピカ・ビクトルなど勝原さん秘蔵のアルゼンチン・タンゴの名盤を楽しみました。
そして、メイン・プログラムの開幕…
蓄音機歌謡コンサート
①上海リル 川畑文子 S10
②鈴蘭物語 淡谷のり子 S14
③急げ幌馬車 松平晃 S7
④センチメンタルダイナ 笠置シズ子 S15
⑤あの丘越えて 美空ひばり S26
⑥悲しき口笛 美空ひばり S34
⑦夢去りぬ 霧島昇 S23
⑧銀座の雀 森繁久彌 S30
⑨街灯 三浦洸一 S33
⑩有楽町で会いましょう フランク永井 S32
戦前から戦後にかけての歌謡史を代表する名曲を揃えた10曲。
選び抜かれた選曲でしょう。勝原さんの関心は、音楽や歌詞にとどまらず、作詞家、作曲家の曲への思いまでも汲み取ろうとする情熱に溢れ、聞き手を「傾聴」に誘います。
例えば…
2曲目と7曲目は、作曲者服部良一の自信作で、同じ楽曲です。
歌詞とタイトルを変更して3回録音し、霧島昇の⑦で、ついに20万枚のヒットを飛ばしたのだそうです。
また、今回取り上げた中で最も古い③の作曲者江口夜詩(えぐちよし)は、岐阜県生まれ。生涯4000曲もの作曲をした『あこがれのハワイ航路』の作曲者です。
勝原さんによると、岐阜県人は同郷の有名人には冷たい土地柄だそうです。けれども江口は例外、記念館を建てて顕彰しているとのこと。
⑨➉の作曲者吉田正は、作詞家佐伯孝夫と組んで、数多くの名曲を送り出したのですが、
「早晩忘れ去られる楽曲を書き飛ばすことに意味があるのか」を問い続ける吉田に佐伯は「良い曲は必ず残る。作った我々が忘れられたっていいじゃないか」と励まし続け、師と仰がれたとのこと。
そして、自らその言葉を体現するかのような生涯を送った佐伯の経歴は、ほとんど知られていない…
この時代の歌は平明で耳に優しいものばかりです。
歌手の技量はたいへん高度で、歌詞がはっきりと聞き取れる明瞭さも魅力です。
勝場さんのお話と骨太のHMV163の再生音も加わって、
一曲一曲に込められたドラマがしっかりと伝わって来るように思えました。
コメント
SL-Mania
2017/05/02 URL 編集返信この異国情緒は、やはり満州をイメージしているのでしょう。長いバンド演奏の部分で、随所に現れる鈴の音がとても効果的です。
ところで、この歌と、美空ひばりの「あの丘越えて」では、馬のことを「あお」と呼んでいます。現在は忘れられていますが、かつては馬を「あお」と呼ぶ慣わしがあり、それは何が切っ掛けで、いつから始まったのか…会場でちょっとした話題になりました。
yositaka
2017/05/02 URL 編集返信ちょっと前に吉田正についてTVで見ておりまして
彼は戦時中 軍歌を作らされていたそうです。
後年かれの作曲で ”いつでも夢を” と言う私の大好きな歌を作曲しましたが、、、彼はその歌の生い立ちをこう語っていました。
”私は軍歌を作っている時 何時か平和の為の
行進曲を作ってやる” と誓っていたそうです。
それが いつでも夢を なんですね。
平和への願いがこの歌に込められているんですね。
あお、、、民謡の中でも あお と言う歌詞は
ありますね。馬子唄に出て来ますね。
すいません ブログ内容と関係ない話で、、、
ではでは
Yさん
2017/05/02 URL 編集返信おはようございます。昭和初期から戦後にかけての歌謡史に疎いネコパパにとっては、初めて耳にする人名であり、エピソードでした。
江口夜詩は軍人でしたし、吉田正も軍歌の作曲家。戦争に深く関わり、戦意高揚の一役を担ったのでしょう。
そのあたりは冷静に見ないといけないと思います。
「あお」の呼び名については、検索によれば奈良時代の天皇家の祭事にさかのぼるようです。固有名詞ではなく犬を「ワンちゃん」と呼ぶような感覚みたいです。
yositaka
2017/05/03 URL 編集返信SL-Mania
2017/05/03 URL 編集返信「軍歌を聴いて軍国主義に傾倒するのでしょうか」…それは難問ですね。
音楽の持つ力は、そういった直接的な行動に結びつくものではない、と個人的には思っていますし、そう信じたいです。
けれども、いろいろな理由ですでに何かに傾倒してしまっている、あるいは傾倒しつつある人に対する情緒的な支えになるということはあり得るでしょう。
それについては、作った側の責任の自覚も必要だと思います。
私は、作品そのものの評価とは別に、それを作り出した人の戦後の姿勢にも、関心を持ちたいと思っています。
yositaka
2017/05/03 URL 編集返信特に淡谷のり子さんは音域を下げる為、吹き込み前夜喫煙・飲酒をしたり、軍慰問の時パーマとドレス、日本軍を背に捕虜に英語で歌ったりしていたそうです。
美空ひばりさんの13才の「あの丘越えて」は、少しこぶしが入った箇所がありとても子供とは思えなかったです。
S30年以降の高音質の再生音にはびっくりしましたがこれは盤質がLPと同じビニールで78rpmとLPの倍速以上の為かな?と思いました。皆さんに私があだこうだと言わず一度聴いて頂きたいですね。
チャラン
2017/05/04 URL 編集返信川畑文子さんは2世の方とのことですが、全く特異な声と歌い回しの持ち主で、当時としても斬新だったことでしょう。
淡谷のり子さんは喫煙をしている写真が多い気がしていましたが、あれはかっこつけではなく、生き様そのものだったのですね。
美空ひばりさん、13才とはとても思えない余裕の技巧で、聞き手によっては、こまっしゃくれた歌唱と受け止められたかもしれません。天才としか言い様がないですね。
SPレコードの素材は1950年代から徐々にビニールに変更されたようです。となると概ね昭和30年代以降はビニールと見ていいんじゃないでしょうか。また逆に、初期のLPはシェラック製であったことになります。
yositaka
2017/05/04 URL 編集返信