4人のケストナー

■近頃の学生は

今年度のネコパパの仕事もそろそろ一区切り。
1年間面倒を見た4人の初任教員も、卒業の時期になります。

昨年度始めてこの仕事を担当して無事3月を迎えたとき、お別れ会で本のプレゼントをしました。
その時選んだのはエーリヒ・ケストナー
なかでもネコパパ一番のお気に入りの『点子ちゃんとアントン』でした。
 
で、今年度は?
同じ本というのもひねりがない。
でも作者は、ケストナーを選びたい。
というのは…
先日読んだ、雑誌「日本児童文学」201611-12月号の座談会「『現代児童文学』の終焉とその未来」で
「近頃の学生は、エーリヒ・ケストナーの名前も知らない」という嘆きのコメントを読んだからです。今年度の新米教員4人の実情はわかりませんが、昨年度の4人は確かに一人も、ケストナーを知りませんでした。
ならば、これも縁。微力ながら、知る人を増やさなければ。
 
選んだのは、彼の最高傑作といわれる『飛ぶ教室
内容については、多くを語るまでもありません。
ここに書かれているのは、
大人としての知性と成熟を手放さないまま、子どもに加担し、子どもの視点に立とうとする一人の作家の「愉しい苦闘」の記録です。

問題は、現在複数出ている訳本のどれを選ぶか。
挿絵こみの「本」として考えるなら、ワルター・トリヤーの挿絵は必須です。
となればもう、岩波少年文庫しかない。
先週発注して、あっというまに届きました。



池田香代子訳
200610月初版2016年11月第13刷
地味な岩波本としては、嬉しいことによく売れているようです。


いつもなにかしら

ちょっと冒頭を読んでみました。
 
 こんどこそ、クリスマス物語の決定版を書く。ほんとうは、おととし書くつもりだった。もちろん去年も。ところが、よくあることだが、いつもなにかしらつごうの悪いことが起こるのだ。ついにこのあいだ、母が言った。
「今年こそ書かなかったら、クリスマスプレゼントは、なしですよ」
 これで決まりだ。
 
すっきりと読みやすい。
でも、決定版って。
どうも記憶と違います。実はこれ、うちにある本とは違うんです。
あちこち書棚を漁ってみたら、なんと、3冊出てきました。すべて訳者が違うのです。




 こんどのは、ほんとうのクリスマスの話だ。じつは、おととし、この話を書こうと思ったのだった。それから、そのつぎには、去年こそは必ず書こうと思った。ところが、世の中はとかくそうしたもので、いつもなにかしらさしつかえがおこった。とうとう、このあいだ、母が言いだした。
「ことしあれを書かないと、クリスマスになんにもあげないよ」
 これでなにもかもきまった。

これは小松太郎訳 195910月初版 講談社少年少女世界文学全集の一冊。




 こんどは本式のクリスマス物語です。ほんとうは、私はこれをもう二年前に書くつもりでした。それから去年は、ぜひとも書くつもりでした。ところがそうしようとすると、いつも何かじゃまが起こりました。とうとう私の母は、このあいだ、「おまえはことしあれを書かなければ、クリスマスになにもあげませんよ!」といいました。
 それで、すっかり決心がつきました。

これは高橋健二訳  1962年初版 ケストナー少年文学全集 岩波書店。



 
 こんどこそ、ちゃんとしたクリスマス物語になるだろう。じつは2年前に書いているはずだった。もちろん去年にも。しかし例によって、いつも邪魔が入った。だが、とうとう母に言われた。「ことし書かないんなら、クリスマスにはなんにもあげないからね」
 そう言われて、すべてが決まった。

これは丘沢静也訳20069月初版 光文社古典新訳文庫。
 
 
ネコパパが最初に読んだのは高橋訳、次いで小松訳でした。
高橋訳で内容になじみ、のち古書で入手した小松訳で、初めて作品の素晴らしさを実感した記憶があります。
ウィキには8種類の訳が紹介されていますが、なぜか小松訳はなく、1962年の高橋訳が最初に掲載されています。その他ネット検索しても、なかなか出てこない。

小松太郎と言えば、ケストナー翻訳の第一人者で『エミールの探偵たち』(エーミールではない)には根強いファンがいるのに、『飛ぶ教室』あまり知られていないようです。
それにしても、印象はかなり違いますね。
ケストナーが書きたかったのは
 
クリスマス物語の決定版
ほんとうのクリスマスの話
本式のクリスマス物語
ちゃんとしたクリスマス物語
 
のうち、どれなのでしょうか。

もちろんドイツ語テクストは一つのはず。
それが日本に来ると、四人のケストナーになってしまう。
まあ、本のプレゼントは、文字通り「クリスマス物語の決定版」で決定なんですが…

どうも違いが気になる。
もう少し続けます。


■人生で大切なのは 

今度は「第二のまえがき」から、例の有名なくだりを引いてみましょう。
前と同じ順です。
 
 どうしておとなは、自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解できなくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どものころのことをけっして忘れないでほしい。約束してくれる?ほんとうに?)
 人形がこわれたので泣くか、それとも、もっと大きくなってから、友だちをなくしたのかで泣くかは、どうでもいい。人生、なにを悲しむかではなく、どれくらい深く悲しむかが重要なのだ。誓ってもいいが、子どもの涙はおとなの涙よりもちいさいなんてことはない。おとなの涙より重いことだって、いくらでもある。誤解しないでくれ。みんな。なにも、むやみに泣けばいいと言っているのではない。ただ、正直であることがどんなにつらくても、正直であるべきだ、と思うのだ。骨の髄まで正直であるべきだ、と。

 
 おとなというものは、どうしてじぶんの子どものころのことを、あんなにすっかり忘れてしまうのだろう。子どもにだってときどき、悲しいことや、ふしあわせなことがあるということが、いつか、まるっきりわからなくなってしまうなんて。(ちょうどいいおりだから、ここであなたがたに心からお願いしておく。あなたがたは、じぶんたちの子どものころのことを、けっしてわすれてはいけない。わたしにやくそくしてもらえるだろうか。きっと?)
 人形がこわれたためになくのでもいい。これからさき、いつか一人の友だちをなくして、そのためになくのでもいい。つまり、なんであろうといいのだ。この世でたいせつなのは、なにが悲しいかということではなくて、どんなにふかく悲しむかということなのだ。子どものなみだは、おとなのなみだより、たしかに小さくない。けっこう目方が重いばあいがずいぶんある。
 しかし、諸君、思いちがいしないでくれたまえ。われわれはなにも、必要いじょうになみだもろくなりたいとは思っていない。わたしのいおうとするのは、人間は正直でなければならない、ということだ。いくらつらいときでも、骨のずいまで正直でなければ。
 

 どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころのことをすっかり忘れることができるのでしょう。そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?(この機会に私はみなさんに心の底からお願いします。みなさんの子どものころをけっして忘れないように!と。それを約束してくれますか。ちかって?)
 つまり、人形をこわしたからといって泣くか、すこし大きくなってから友だちをなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題ではなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだってめずらしくありません。誤解しないでください、みなさん!私たちは何も不必要に涙もろくなろうとは思いません。私はただ、つらいときでも、正直でなければならないというのです。骨のずいまで正直で。

 
 どうして大人は自分の若いときのことをすっかりわすれてしまうのだろうか。子どもだって悲しくて不幸になるときだってあるのに、大人になると、さっぱり忘れてしまっている。(この機会に心からお願いしたい。子ども時代をけっして忘れないでもらいたい。どうか約束しもらいたい)
 人形が壊れたからでも、あとで友だちを失ったからでも、泣く理由はどうでもいい。人生で大切なのは、なにが悲しいかではなく、どれくらい悲しいか、だけなのだ。子どもの涙が大人の涙より小さいなんてことは絶対にない。ずっと重いことだってよくある。どうか誤解しないでもらいたい。不必要にメソメソしようと言っているのではない。つらいときにも、正直に言ってほしいだけなのだ。骨の髄まで正直に。
 
ううむ。人生で大切なのは

なにを悲しむかではなく、どれくらい深く悲しむか
なにが悲しいかということではなくて、どんなにふかく悲しむか
なんで悲しむかということ…ではなく、どんなに悲しむかということ
なにが悲しいかではなく、どれくらい悲しいか

さて、どれでしょう?

ここまで書いてきてつくづく思います。
まだ本題がはじまってもいない「まえがき」の部分なのに、「飛ぶ教室」の文章密度はおそろしく濃い。
だからこそ、翻訳にも力が入る。
翻訳の言葉もまた、高密度だ。それだけに、骨の髄まで正直に、訳者の言語感覚や、人生観があらわれてしまう。
よく言われるように、翻訳は生ものであり、一種の消耗品。いつもリフレッシュされていく必要があるのでしょう。
しかし、それでも、
最も古い小松太郎の訳文の、言葉選びの丁寧さと自然な語りの呼吸感は、余人をもって代え難いように思います。
どんなにふかく悲しむか
文字遣いも含めて、もっともネコパパの腑に落ちるのは、やっぱりこれ。

どこかで、トリヤーの挿絵も込みで、小松太郎訳を再版していただけないでしょうか。
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コメント

コメント(11)
No title
>一人も、ケストナーを知りませんでした...
おーっ、そうなんですか。(驚)
不思議です、それじゃあ、一体何を知っているんでしょうか。(笑)

まっ、それはともかく、「飛ぶ教室」Das fliegende Klassenzimmerの冒頭を見てみました。

Diesmal wird es eine regelrechte Weihnachtsgeschichte.

regelrechteは英語ならreal、regular、downrightってところでしょうか。
WeihnachtsgeschichteはもちろんWeihnachts(クリスマス)+geschichte(物語、お話)ですね。

みっちが普通に訳すと、こうです。
『今回は、本当のクリスマス物語になりそうです。』

「なりそう」としたのは、es wirdで未来形になっているからです。英語のwillです。

みっち

2017/03/15 URL 編集返信

No title
つづきです。

第二のまえがきの方はこうです。

Es kommt im Leben nie darauf an, worueber man traurig ist, sondern nur darauf, wie sehr man trauert.

これもみっち的、普通の訳。
『人生で重要なのは、人が何について悲しむかではなく、どのくらい深く悲しむかである。』

拙い訳ですが、なにかご参考になれば。

みっち

2017/03/15 URL 編集返信

No title
> みっちさん
待ってました(爆
4人の翻訳者がそれぞれに頑張っていることがわかります。
冒頭の一句を「未来形」で訳しているのが新訳の丘沢氏だけというのは興味深いことです。日本語では、どうやら現在形そのものに未来形のニュアンスが含まれているようですね。もっともシンプルな丘沢訳が、ここでは几帳面。
「クリスマス物語」は、さらっと読んでしまいますが、今回これを書いていて本作は「クリスマスそのものの物語」ではなく「クリスマスを背景にした物語」なのに、これで問題ないのかな、とふと思いました。そこをはっきりさせるなら、
「今度は本当に、クリスマスの、あの話だ」
という感じでしょうか…

yositaka

2017/03/15 URL 編集返信

No title
> みっちさん
この箇所、みっちさんの訳は池田訳に近いですね。高橋訳、丘沢訳は「深く」を省略していますが、これはやっぱり欲しい。「どんなに」は、高橋健二が好んで使った言い方ですが、現在は古いい方になっているのかも。
それでも小松訳は捨てがたい気がします。
「ふかく」のかな書きは「諸君」「願い」「悲しみ」が漢字であることから見て、意図的なものでしょう。そのあたりの繊細さが染みます。

yositaka

2017/03/15 URL 編集返信

No title
今年度の新米教員4人の実情ですが、
やはり4人ともケストナーの名を知りませんでした。でもこれで、知っている人を8人は増やしたことになります。これは使命感をもって続けなければなりません。

yositaka

2017/03/16 URL 編集返信

No title
>やはり4人とも...

へぇーっ、これはもう「若い人の間では、知っている人の方が珍しい」ということですかね。
まあ、「昔はねぇ...」とか言い出すのは止めておきましょう。(笑)

ちょっと話は違いますが、みっちの同年配の人でも、大学卒業してから、まともな本は一冊も読んだことがない、なんてのがゴロゴロいました。
みっちが新入社員で入社したときの、上司の課長さんは通勤鞄に文庫本を一冊入れていましたが、その本は20年来ずっと変わっていなかったのです。(鞄の底で茶色く変色して風化しておりました-爆)

みっち

2017/03/16 URL 編集返信

No title
> みっちさん
4人の中にはウィリアム・ゴールディングやウラジーミル・ナボコフ、司馬遼太郎などの読者もいてさすがに「まともな本は一冊も」という人はいません。まあ教員ですから。でも児童文学の古典的作品となると、今や、出会う機会が限られているのかもしれません。
長編作家ケストナーは教科書教材にも採択されにくく、また目だった映像化の機会も少ないですしね…丁寧に作られた映画はあるんですが。

yositaka

2017/03/16 URL 編集返信

No title
はじめまして。一昔前卒業論文で「エミールと探偵たち」の翻訳比較について研究した、三十路です。(若い中に入りますかね。笑)
小松太郎氏の名前を見て、思わずコメントしてしまいました。小松太郎訳の岩波少年文庫で育ってきた私には、高橋健二訳は「文がキラキラしている」と感じ、池田香代子訳は「現代風」と感じていました(⬅まったく学術的ではないですが)。

小学校の図書館の外国児童文学の棚で盛況なのは、ディズニーだけです…。なんともったいない…!

ちなみに、私の「飛ぶ教室」は山口四郎訳です。「くず菓子」を葛菓子だと思っていた子どもでした(笑)

乱文長文、お許しください。
ああ、もう一度、研究したい!!

リリー

2017/03/16 URL 編集返信

No title
> リリーさん
ようこそ、ネコパパのブログへ…
興味を持っていただいてとても嬉しく思います。私の卒業論文は、佐藤さとる、いぬいとみこ、斉藤淳夫のファンタジー作品の比較で、40年以上前のことです。三十路、お若い!まだまだいくらでもできますよ。ぜひご一緒に勉強しましょう。
さて、山口四郎訳も、書架から発見しました。1983年初版の講談社文庫です。「人生で大切なもの」の訳文はこうでした。

この世の中では、なにをかなしむかということは、すこしも問題ではなく、どれほどふかくかなしむか、ということだけが問題なのです。

平仮名が多い敬体です。「どれほどふかくかなしむか」ああ、これも素晴らしい言い回しですね。

yositaka

2017/03/16 URL 編集返信

No title
‥‥児童文学に興味は‥‥あるほうだとは思っているのですが、実際に読んで感銘を受けたのは、イギリスの、いわゆる“タイム・ファンタジー”と呼ばれる作品群 ― 主人公が過去の世界にもぐりこむもの ― だけなのです;;。これは河合隼雄氏の影響ですね。
加えてエンデの『はてしない物語』くらいでしょうか…。

ケストナーは、名前こそ知っていますが、読んでいません。
岩波少年文庫は、手許にはいろいろありながら、読んでいるのは上記、タイム・ファンタジーばかりで、ウィリアム・メインの『砂』など、雰囲気がとてもいいのですが、退屈で、途中で止まったまま…。

あ、あとアイザック・シンガーがよかったです^^。
「「父さん、カバラを教えてよ」/「カバラは、子どもには向かん。…」」← ひぇ~っと言ってしまいそうな親子の会話です(『お話を運んだ馬』)。

本題とかかわらず、申しわけありません。機会があれば、ケストナーも読んでみます。

へうたむ

2017/03/19 URL 編集返信

No title
> へうたむさん
ドイツの児童文学は真摯で、哲学的な問題作が多く、エンデのようなファンタジー作品でも、メッセージ性が強く出ることが多い。ケストナーはその中でも、読者への信頼をユーモアで示すことができる作家でした。
ただ、「飛ぶ教室」の訳者丘沢静也氏の言うように、「作品に全てが明瞭に書かれているために、研究者や批評家の出る幕がなく、それで評判が悪い」という面はあるようです。また、長編作家のために教科書や副読本に掲載されるチャンスがなかったことも大きいと思います。
機会がありましたら、ぜひご一読をおすすめします。

yositaka

2017/03/20 URL 編集返信

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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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