第71回日本口承文芸学会研究例会⑥研究者の役割と教師の役割



助言と質疑応答
コメント   蔦尾和宏(岡山大学)
            生野金三(関西福祉科学大学)
司会   高木史人
 
■蔦尾和宏さんから
教科書単元「むかしばなしがいっぱい」に取り上げられた「つるの恩返し」では、差別問題の視点から異種婚姻譚の要素が削除されているとのお話がありました。
しかし、それ以前の問題として、教育現場では男女関係を扱った教材は概ね排除されています。
そのことも考えるべき問題と思います。
外国の話の教材化は歴史が古く、イソップ寓話の紹介はすでに江戸時代からありました。日本に受け入れやすいよう改変が加えられながら継承されてきたわけですが、そこにはリライトの問題があります。
特に重要なのは絵本として多く普及したこと。絵本作家の活動を研究すること、今後のあり方を考えることも重要な課題です。外国の話だけではなく、日本の話の場合も同じです。
 
■生野金三さんから
国語教育は言語教育です。その観点から、教科書に取り上げられている作品のテクストはしっかり検討されなければならないと思います。
たとえばロシア民話『おおきなかぶ』は、教科書会社によって2種類の異なった訳が使われています。西郷竹彦訳と内田莉莎子訳です。
 
まごを
いぬが ひっぱって
いぬを
ねこが ひっぱって
「うんとこしょ、どっこいしょ」
なかなか、かぶは ぬけません。…
(西郷訳)
 
ねこが いぬを ひっぱって
いぬが まごを ひっぱって
まごが おばあさんを ひっぱって
おばあさんが おじいさんを ひっぱって…
(内田訳)



 
新美南吉の童話『ごんぎつね』も、大半の教科書で取り上げられています。
これは雑誌『赤い鳥』掲載に際して編集者の鈴木三重吉によって大幅に手を加えられたものが流布していて、教科書もこれに従っています。



しかし南吉の草稿は残され、改変箇所も特定されてきていて、例えば終盤、死に瀕したごんが兵十に「うなづきました」の部分は草稿では「よろこびました」になっている。研究の進展で原作本来の姿が明らかになれば、教育現場でも教材解釈や指導が変わる可能性があります。
 
■高木史人さんから
学習用辞書の語句説明が曖昧で一定しないことについて。
それぞれの辞書には監修者として立派な名前が書かれていますが、すべてに目が行き届いているわけではありません。実践者もこれを鵜呑みにせず、批判的に見ていく必要があります。状況改善は実践しながら、ということになります。
 
君島久子さんの再話について。
中国の昔話の中には、実はイデオロギーの影が濃いものもありますが、君島さんの再話は人類的なものとして普遍化し、良い意味で「民族化」しているので「イデオロギー抜き」の作品としても成立している。それが教材として採択される理由です。でも、それだけというのは、やはり視野が狭いと言わざるをえません。
また、昔話は国を超えて伝播するもので、韓国民話とされている『三年坂』は源流が日本である可能性が高い。

研究者の役割は何でしょうか。
それは、文字文化だけが教育という観点から視野を広げること。
流布された教材と史実との違いを明らかにし、教材を史実にあった内容に訂正していけるよう、研究成果を世に問うことです。
それは、ひとりの力ではどうにもならない。組織や学会の違いにこだわらず、皆が声を上げていくしかないと思います。

■ネコパパ感想
現場の教師は教科書採択にはかかわれない。
「そこにあるもの」を使用して授業をするしかないわけです。
ところが、同じ作品のテクストが、教科書によって大きく違ったり、
これまで最も力をいれて指導してきた内容が「実は違っていた」としたら…現場は途方にくれてしまうかもしれません。

私などは、教師になった初めから教科書のテクストは決して正確ではないと思いながら授業を続けてきましたが、
それでも子どもにとって唯一の頼りは教科書という事実は変わらないのも確かです。
これはこれとして尊重しつつ、幅広い学識を絶えず求めてテクストを批判的に見定める視点。これが現場教師にも必要だとあらためて思いました。

さて、お話の中で興味深い事実をひとつ。
『ごんぎつね』と同じ新美南吉の作品『てぶくろを買いに』は、現在どこの教科書にも採択されていないそうです。
その理由は、母親からの抗議。
自分が危険視している「人間」のもとへ、子ギツネだけで手袋を買いに行かせる母親の行動が、「保護責任の放棄」に見えた。
そういうことなのだと思います。
これは、意外でした。
実は、私はこの作品で最も面白いと思っているのが、この母ギツネの「迷い」の心情でした。
「人間は、ほんとうにいいものかしら」
そんな疑問を持ちながら、子ぎつねだけを町に送り出す母ギツネの心中は?
そこには「他者と生きる」ことへの期待と不安、信頼と絶望と入り混じった心情が含まれています。
これこそ児童文学が描こうとするものであり、
それを子どもたちと解き明かす仕事が国語教育ではないのか…そんなことをふと思ったりしたのです。



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コメント

コメント(4)
No title
年末の挨拶が終わったのに、思わず、コメント(笑)
「てぶくろをかいに」を読み聞かせた後、
その場では何も言いませんが、
数日後に、コドモたちに
「人間はほんとにいいものかしら?」と
いきなり聞いたりする私です。
「ナニ、言ってるの?」みたいな子もいますが、
結構、覚えていて、いろんな答えが返ってきます。
私には、とても素敵な時間です。

ユキ

2016/12/28 URL 編集返信

No title
> ユキさん
私は1年生で習った時からこの話、好きでした。
自分だけで人間の街に買い物に行くワクワク感!間違えて狐の手を出してしまった時のドキドキ感!狐とわかっても手袋を渡してあげた帽子屋さんのやさしさ…
母ギツネは
「人間は、ほんとうにいいものかしら。人間は、ほんとうにいいものかしら」と「二回も」つぶやきます。この「繰り返し」の意味に気づかない人が案外多いのですが、ここに南吉の思いが結晶している。
その時はわからなくても、この言葉はずっと子どもの記憶に残り、人生を支える杖になると私は思っています。
保護責任なんて、なんと杓子定規な見方でしょう。大人だって子どもにうんと支えられているんです。

yositaka

2016/12/28 URL 編集返信

No title
「読む」ということばは、本来は予知する、予言すると同様の深みを有しています。裏をヨム、先をヨム。だから、その神秘性が、神の名にまでなっていました。月読命。日をヨム能力がコヨミ(コヨミ)、月をヨミ、日をヨム能力を持つ特別な存在がヒジリ(日知り)でした。読むが、狭い領域に閉じ込められたのは、いつからでしょう。
いや、いまここにも、そういう強いヨム力があるのだと信じたくなる蛙でした。

そうして、ヨムと同様に強い力を持つのが、キクなのだと。

シュレーゲル雨蛙

2017/01/12 URL 編集返信

No title
> シュレーゲル雨蛙さん
言葉というものは実に扱いづらく、怖ろしいものです。人を知に目覚めさせ、生きる意味に気付かせるかと思えば、一瞬に死に追いやる猛威を振るう。そのことを知らない人々が、無造作に濫用し、無力化しようとしているのが今という時代です。ではどうすればよいか。隠れているものを読み取り、聞き取るしかない。「シノダ一家」の持っている「月の目」と「風の耳」が今こそ必要なのでしょう。

http://blogs.yahoo.co.jp/izumibun/24810347.html

あれ?もしかして「夜を照らす月のように、闇にうごめくものを照らし出す、月の目」というのは、月読命から来ているのでしょうか?

yositaka

2017/01/12 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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