日本イギリス児童文学会第46回研究大会③シェイクスピア作品の中の子ども



16:0018:00 
基調講演2 東京大学 大橋洋一
「シェイクスピア作品の中の子ども」
 
シェイクスピア作品に登場する子どもたちは、16世紀の文学・演劇作品の常として、大人びた子ども―大人のミニチュア―か、さもなければ、無垢な犠牲者のどちらかである。
喜劇作品では、次代を担う若者たちはいても、子どもの影は薄い。現在から見ると子どもと子ども時代は当時着目されなかったか、忘れられたと見ることはたやすいが、その存在と重要性は、文化的無意識レベルであっても認知されていたと考えることもできるのではないか。シェイクスピア作品からは、前近代における子どもに対する新たな意識の芽生えが確認できる。 

■子どもに光を当てる演出
『リチャード三世』『マクベス』『冬物語』は現代の上演において子どもに光を当てる演出が多い。子ども部屋で演じられるカクシンハン版『リチャード三世』、子どもを人形で表すトレヴァー・ナン演出『冬物語』、子どもの葬儀場面から始まる映画『マクベス』(2015)など、多様な試みが続いている。奇をてらった過剰演出と言えなくもないが、奇しくも作品のもつ文化的無意識を顕在化させているといえよう。


 
■子どもが登場するシェイクスピア作品
この講演では子どもを「Child=7歳~14歳」と規定。シェイクスピア劇の登場人物1000人に対して子どもの役は30人。台詞ありは13人。当時の英国家庭は核家族が主で子どもは平均2,3人であり、シェイクスピア劇の規模もそれに準じている。
当時の演劇は男性のみで演じられるもの。女性、子ども役は15歳以下の少年俳優boy actorが受け持ち、その人員は劇団に3,4人が普通だった。
比較はなかなか困難だが、シェイクスピア劇には子どもの役が多く、少年俳優をフルに使ったのではないかと見られる。
 
■早熟と脆弱
『ヘンリー五世』の少年…責任感あり利発で機転が利く軍人の世話役。フランス軍によって殺害される。
『リチャード三世』…子殺しの連鎖が描かれ4人の子どもが殺害される。
『マクベス』…マクベスの好敵手マクダフの息子。早熟でマクベスの刺客によって殺害される。




『冬物語』…早熟な王子マミリアス。母ハーマイオニーの死に心を痛め絶命。
 
「早熟で早死」がシェイクスピア劇の子どもの共通点である。
「少年時代の発見」以前の時代なので「小さい大人」の造形なのはやむを得ない。また、無垢とは対照なキャラクターは、早期の退場を観客に期待させるものにもなっている。
一方で、年齢と精神の不一致により、「無理がたたって死に至る」脆弱性も発生。強さと弱さの共存によって「苦しみ」の表現が生まれる。「苦しむ子ども」を媒介とする「悲しみと憤り」が人々を共同体・連帯形成に向かわせる。時代背景には10歳未満の死亡率の高さ(どの家にも死んだ子どもがいる現実)があった。
 
■親と子ども
シェイクスピア劇は世代間闘争の物語である。初期作品には親に反抗する子どもが(夏の夜の夢、ハムレット、マクベス)、後期作品には親とこの和解、世代宥和が(リア王、冬物語、テンペスト)描かれた。シェイクスピア劇では友愛関係が重んじられるかわりに親子関係は希薄で、物語は親からの視点で描かれる。水平的友愛関係は「双子の関係」にもなぞらえられるもので、シェイクスピア作品は「双子のテーマ」の変奏によって形成されているといえるかもしれない。しかし後期作品に至って過大評価された友愛関係は喪失に向かい、「家族の和解」を楽園回復として夢見るようになっていく。
『冬物語』…愛情と友情の葛藤のない物語。
 


■子どものジェンダー
『冬物語』…マミリアスは、母親と女官に囲まれた7歳。スカートをはいた男子→当時の風習
『リチャード三世』…女たちと対立することで自己確立する主人公。
『マクベス』…マクダフの息子だけでなく、マクベス自身も女に囲まれた子どもから脱せない存在として描かれる。マクダフの名が「男の子ども(マグの息子)」を暗示するに対して、マクベスの名も「女の子ども(ベスの息子)」を暗示しているという説も。
 
■子ども時代の恐怖と誘惑
当時は全体的に短命。老齢・耄碌=幼児化、女性化への恐怖があった。それに抗う一方で、子ども時代へのノスタルジックな誘惑もあったと思われる。
いずれにしてもシェイクスピア作品は「苦しむ子ども」「家族は子どもに支えられている」ことを描いたいう一点で「子どもの不在=近代家庭の一つのモデルを描き出したと言えるのではないだろうか。


■ネコパパ感想
16世紀の演劇作品が、今日まで不朽の価値を保つというのは驚くべきことですが、ストーリーや心情描写だけでなく、「核家族」の規模で展開するドラマ、というのがシェイクスピアの現代に通じる普遍性を保証する大きな要素ということに、改めて気づかされました。
シェイクスピア劇に子どもっていたっけ?
…というくらいの、情けない認識のネコパパでしたが、実際には「あっぱれ」な子ども像が描かれていたのです。

近代以前を「子ども未発見」の時代とする言説は、現在は嫌というほど耳にして、すでに揺るがぬ定説みたいになっているのですが、大橋さんのお話を聞くうちに、その考え方、一種のファンタジーなのでは…と思えてきました。
とにかく事実として、古代であろうと中世てあろうと子どもはいました。
そしてシェイクスピアは近代的な子ども概念に頼らずとも、子どもの一つの真実の姿を描くことができた。 子どもも含めた人間を見抜いていた証とも言えそうです。

それにしても「現代演出」は、オペラだけではなく、シェイクスピアなど舞台芸術全般に浸透してきているのですね。しかし、奇をてらったものも多いのでしょう。子どもを「人形」で演出するなど、どうにもいただけません。それこそ前近代の発想のように思うのですが…
関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメント(4)
No title
近代以前にも「子ども」という単語はあったわけでしたから、子どもの発見は「近代的な」子ども像の発見ということかと思います。日本では日本史研究の黒田日出男さんがアリエスの子ども発見説を日本史にダイレクトに持ち込む不用意を早い時期に戒めています。日本では、柄谷行人が早くに導入していましたね。ただし、「近代的な」子ども観はたしかにあるのです。中世的子ども観や古代的子ども観もあったのだろうと、見るのがよいのかと、栗を食べたり瓜を食べたりしながら思うのですが。

シュレーゲル雨蛙

2016/12/01 URL 編集返信

No title
雨蛙さん、子どもはいつの時代にもいますが「子ども観」は変わってきている、という理解でしっくりきます。ただ「これこれは、近代になって、人工的に産み出された概念」という言い方は、耳当たりが刺激的でかっこよく「これを言わないと遅れてる」みたいな感覚で流布した印象があります。「近代ってそんなに偉いの?」と思ったりします。

yositaka

2016/12/01 URL 編集返信

No title
エライんではなくて、ヘンなんだと思います。文化人類学者のクロード・レヴィ-ストロースは、従来の社会が変化の少ない「冷たい社会」だったのが、俄かに「熱い社会」に変わったと言っています。近代は、地球が暑くなるほど、人が熱いヘンな社会なんてす(もっとも、その恩恵で人口が増えるほどの余裕もでき、本来は生せる余裕のなかった(?)ところにぼくがあったのかも知れないから、近代のおかげで生れることができて生きて居られるかも知らないので、一概に悪いとばかりも言えないんですが、失ったものも大きい)。難しいですね。

シュレーゲル雨蛙

2016/12/01 URL 編集返信

No title
温暖化が進むともっと熱くなるんですかねえ。近頃の日本の様子を見ると、熱いどころか醒めていて、薄気味悪い気もします。レヴィ・ストロースも「冷たい社会」と「熱い社会」と区分けしたがる近代病の持ち主なんでしょうね。いや、雨蛙さんに教えていただいた「はなし」と「かたり」の違いを考えるのは素敵ですよね。うーん、「区分け」と「区別」もきっと違うんでしょう。

yositaka

2016/12/01 URL 編集返信

コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

ご訪問ありがとうございます

月別アーカイブ

検索フォーム

QRコード

QR