児童文学学会第55回研究大会④露風・八十・白秋



研究発表
10 29 日(土)
13001430 研究発表Ⅰ 分科会③
 
三木露風の唱歌『小学生の歌』について…姫路大学 和田典子

■唱歌と童謡の書き分け




三木露風は詩人であり『赤とんぼ』などの同様の作者としても有名であるが、1923(大正12)に『小学生の歌』全6巻を出版するなど「唱歌」も創作していた。
作品内容も童謡とは明らかに違う。具体的な作品例の比較分析を通して、唱歌と童謡を作り分けた露風の作品を鑑賞する。
唱歌「蛙」と童謡「青蛙」を比較検討した。
「蛙」は標準語で書かれ、柳に蛙が懸命に飛びつき努力するのを小野の道風がみて精進した逸話を下敷きにしており徳育的である。
他方、童謡「青蛙」は出水の後の急流に柳の葉を流して遊ぶ子どもの姿と目をぱちくりさせている青蛙のかわいらしさを描く。象徴技法を使用して、水・柳の葉・青蛙という青いイメージの連続で紡いでいく。
作曲はどちらも山田耕作であるが、唱歌は類型的、童謡は芸術的で曲の面でも両者は対照的である。

■ネコパパ感想

官主導の「唱歌」の場合、作者は規範的、道徳的な作品の枠組みで書かざるを得なかった事実を作品に即して確かめようとする研究でした。
そこで「唱歌」概念の捉え方について質問させていただいたところ、当初は文部省合議の集団創作として作られていた唱歌だが、明治33年頃から個人作品の公募が始まり、以降「作者名のある唱歌」が拡大。
しかし官主導の「徳育知育体育」を育て「人心ヲ正シクス」という方針は基本的に変わらず、詩人・作曲家もそれを意識して創作せざるをえなかった、とするのが和田氏の仮説です。
例示されたの露風の作品を見る限りは、「書き分け」は妥当な見解と思われましたが、もしかすると他の詩人の中には、両者の垣根を意識せず創作し、それが採用普及した人もいるのではないか…とふと思ってしまいました。
うーんこれって、もしかすると言世さんの影響でしょうか。

 
大正期童謡をめぐる北原白秋と西條八十の考え方と立場の相違…筑波大学人文社会科学研究科 博士課程 ナーヘド・アルメリ

■洗練の八十、直感の白秋




互いに異なった童謡観を提唱し、作風の差異が見られる北原白秋と西條八十の対立関係に着目し、「同じ題材を扱った作品」の比較によって、両者の違いを具体的に検証しようとする試み。
ふたりの詩人に童謡創作の切っ掛けを与えた「赤い鳥」の編集者鈴木三重吉は「芸術童謡」を唱えた。その「芸術」概念は曖昧ながら、西洋趣味的手法に傾いていたと思われ、そのために三重吉は八十をより評価した。
八十の童謡は繊細が美的ニュアンスと微妙な寂しさが特徴で、洗練された大人の視線を引き寄せた。
これに対し、白秋は単純さと直感を重んじ、子どもの生活場面や視点から、子どもの内面を描こうとした。
大正期童謡はその対立と相違から育まれたとするのがアルメリ氏の仮説である。
その検討例として、類似した題材である「子どもの留守番」を扱ったとされる「金魚」(白秋)「お留守番」(八十)の比較を試みる。




■ネコパパ感想

二人の詩人の作風について、従来言われていたやや総括的な評価を、テクストを比較検討することによって、より具体的に「見えるかたち」で検証していく方向性はとても適切。作品もあらためて面白く読ませていただくことができました。
一方で、視点も対象年齢も描かれた情景も違う二つの作品を、「留守番」の共通項でくくるってしまうことがはたして適切か、という疑問が湧いたことも事実です。
例えば共通項を複数にして「生き物・子ども・死」で考えてみるとか、全童謡(とまではいかなくても、まとまった数の)の使用語彙を精査比較してみるのはどうか…と思ったりしました。
関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメント(6)
No title
教育・研究者でない私が、言うのもなんですが『唱歌と童謡の書き分け』の「書き分け」の唱歌検定基準はなんだったろうと思い手持ちの日本コロンビア『文部省唱歌集成』「その変遷を追って・・・・解説・写真集」を読んでみました。
そこで参考になったのは、明治30-31年山田源一郎編「教材適用新唱歌』の意図「忠君愛国仁義道徳ノ精神ヲ発揚シ」と明治31-32年明治音楽会編纂『学校唱歌』の目的「・・・・児童の品性を陶治し美想を滋養することにあり」でした。唱歌愛好者の私は、芸術的でないと言われるとクラッシックは、芸術でジャズは、・・・といわれるようで・・・。
戦後昭和22年の学校教育法制定から露風の『赤とんぼ』は、小学5年生の音楽に教材として採用されていました。

チャラン

2016/11/20 URL 編集返信

No title
吉丸一昌先生は、『尋常小学唱歌』と『新作唱歌』で書き分けたのです。前者は読本に添った訓育目的で、後者は感興の赴くままに子どもが楽しめるように、です。『尋常小学唱歌』にはすでに旧来の童謡が取り入れられています。したがって、唱歌と童謡を区別することがどいうことなのかをもっとしっかり認識しなくてはいけません。和田さんがおっしゃった書き分けというのは至極当然のことであって、極論すれば教科書検定を通るかどうかだけの差しかない、制服と普段着の差しかないのです。普段着で学校に行ったっていいわけですよ。家の中で制服で過ごしたっていいわけですよ。まったく難しい話じゃありません。言世と指名があったので書き込みました。指名があればいくらでも書きますよ。

kotoyo_sakiyama

2016/11/20 URL 編集返信

No title
チャランさん、和田氏の分析は歌詞面と音楽面の両面に渡るものでしたが、どちらかといえば歌詞に重点を置いたもので、楽面の方は譜面は示されていたものの、具体的にどこがどう違っているのか(芸術的なのか)実感することは個人的には難しいと感じました。こういうときこそ「レコード」の出番だと思いましたね。

yositaka

2016/11/20 URL 編集返信

No title
>和田さんがおっしゃった書き分けというのは至極当然のことであって、極論すれば教科書検定を通るかどうかだけの差、制服と普段着の差…
言世さんの見解がよく伝わってきました。
ともかくも「差は存在する」。ということは、研究者がその差の有り様を個々の作家に即して分析・検討する方法も十分成立するわけです。もちろんそれはなかなか困難なことで、妥当性には検証が必要でしょうが…

yositaka

2016/11/20 URL 編集返信

No title
学校でアニメソングは教えないでしょう。教えてもいいけど学校である以上、教育のための意味がないといけません。かわいい制服(唱歌)だわといってもてはやすこともあるし、普段着(童謡)だと集団行動に差し障りがあるからということもあるでしょう。違いというのは特に歌詞の問題であって、曲として差はないとあの弘田龍太郎が言っているではありませんか。童謡運動を高く評価するうちに大きな違いがあるかのように錯覚してしまったのです。藤田圭雄さんが典型的でしょう。差があったとしてもそれは実は分かるようで分かりにくい。それを議論する意味がどれだけあるかです。近いうちに童謡運動100年でまた盛り上がるでしょう。唱歌童謡の違いの議論よりも、いまいちど、『赤い鳥』や『金の船』と、『少年世界』『日本少年』『少年』とどちらのほうが当時の子供たちに影響力があったか、考えてみるほうが有意義ではありませんか。

kotoyo_sakiyama

2016/11/20 URL 編集返信

No title
「違いというのは特に歌詞の問題であって、曲として差はない」というのはとても説得力のある言葉だと思いました。
議論する意味は「議論に値する仮説」があらわれたときに生ずるもの。それは多様であっていいと思います。個人的には「赤い鳥」以前をもっと勉強しなければと考えていますが。

yositaka

2016/11/20 URL 編集返信

コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

ご訪問ありがとうございます

月別アーカイブ

検索フォーム

QRコード

QR