ライラに手渡された黄金の羅針盤。
すべての疑問に答を出す力を持つ。しかしそれを動かし、答を得る力を持つのはライラだけである。
羅針盤を動かすエネルギーは原初の塵「ダスト」である。
ダストは人間の魂を具現化する「ダイモン」を構成する元素でもある…
映画「ライラの冒険~黄金の羅針盤」を観る。
最近はビデオですますことも多い映画鑑賞だが、
優れたファンタジーと考えている原作を持つだけに、これはぜひ映画館で、と考えた。
めったに満員にならない地方の館であるが、
今日はかなりの入り。前方二列目での鑑賞をするはめに。
首が痛い。
2時間を息もつかせぬ展開。
原作でイメージしていた作品世界が実によく視覚化されている。
演技者も適役ぞろい。
ニコール・キッドマン扮するコールター夫人の存在感がすごい。
メカデザインやその動きの演出もなかなか見事。
飛行船や気球、自動馬車(?)が青白い光を発するエネルギー源「アンバリック・パワー」によって作動している様子など、実に怪しく魅惑的である。
見に行って決して損のない作品だ。
注文もある。
前半の展開が性急。
ライラと地元の子どもたちの絡みと熱い友情は、もっとていねいに見たい。
人とダイモンの関係や「魂」の具現化であることの的確な描写ももっとほしい。
でなければ、一人一人仲間が消失していく恐怖やライラの憤激が共有できないし、
ダイモンもなんだか人間のペットのように見えてしまう。
後半のアクションに力を注ぎたいのはよくわかる。
それが娯楽作品というものであることも。
クライマックスの戦闘場面。
王座をかけての白熊同士の一騎打ち。
子どもたちを救出するための魔女、兵士、白熊たちの入り乱れての戦い。
やはり、これか。これで満足してしまえば、「家族で楽しめる娯楽」の域に収まってしまうのだな、と感じざるをえなかった。
これをやりさえすれば、観客は興奮。カタルシスを得て帰宅できる。スター・ウォーズもハリー・ポッターも、ナルニアも、指輪物語でさえも、みな同じ。
ここまで違う作品世界が、
「いつものファンタジー映画」という範疇に、小さく小さく収まってしまう。
子どもの本屋メリーゴーランドの店主 増田嘉昭さんは、かつて映画『ロード・オブ・ザ・リング』を評して「原作に実に忠実に、とてもしっかりと作られている。でも、許せない」と言われた。
そのことがあらためて思い出される。「ライラの冒険」も「リング」と同じ映画会社の制作。増田さんのご意見が聞きたいものだ。
もう一点。
「導かれる」物語について。
ここでの導き手は黄金の羅針盤だ。
他の作品では、なぞの予言。あるいは古くから伝わる叙事詩。
主人公は、運命の地図に導かれて冒険の旅に出る。これは
ファンタジー作品にはたびたび現れる設定、というよりひとつのパターンであり
それを読み解いていくのも読み手の楽しみなのだが、
結局のところ作者の思い通りの展開を最短距離ですすめるための有効な手段ともいえる。
すべては定められた運命であり、逸脱はありえないのだ。必要な人間には必ず出会う。困難は必ず打開される。
そこに主人公たる人間の主体はどの程度存在するのか、
主人公は(狭い意味で)敷かれた道をたどる操り人形なのか。
これはファンタジーを考える上で重要な論点ではないかと思っている。
Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。
コメント