戦争児童文学の構造を解明する-斎藤美奈子「戦争と少年」

この国では、毎年夏になると「戦争」の記憶を呼び起こします。
戦後生まれの世代でも、それは共通体験になっているのではないでしょうか。戦後71年に生きる子どもたちも同じです。
共通体験を作ってきたひとつが、夏休みが終わるとまもなく国語の授業で扱われる「戦争教材」。それは戦後ずっと受け継がれてきた伝統芸のようなものです。

一つの花                              今西祐行
ちいちゃんのかげおくり         あまんきみこ
大人になれなかった弟たちに  米倉斉加年 
夏の葬列              山川方夫
凧になったお母さん       野坂昭如…

取り上げられる作品の多くは「戦争児童文学」と呼ばれる作品です。
名作、力作ぞろいといわれる作品群ですが、
なぜかネコパパは、これらの作品に苦手意識があります。
児童文学に限らず、小説、映画、テレビドラマも含めてのメディアにも、そんな「苦手意識」を感じることがしばしばあるのです。




さて、今回ご紹介するのは、季刊『飛ぶ教室』452016.春(光村図書)に掲載された評論です。
この号は、20163月に一周忌を迎えた、今江祥智の特集号でした。
近頃は号を重ねるたびに頁数が減り、台所事情が心配される本誌ですが、今回は創刊の功労者に敬意を表して増頁。今江先生ゆかりの執筆陣を結集して、読み応えのある内容でした。
そのなかで特別に眼を引いた一篇がこれです。

斎藤美奈子「戦争と少年―『ぼんぼん』四部作を読む」。
 
今江祥智の自伝的長編小説『ぼんぼん』を、従来書かれてきた「戦争児童文学」と比較し、「文学」としての立脚点を明らかにしようとする内容。
作品の内容に迫りつつ、同時に「戦争児童文学」の構造を解明したものでした。
ネコパパの「戦争児童文学」への苦手意識の原因を明らかにするヒントも含まれていたように思います。

斎藤は「戦争児童文学」には大きく二つのタイプがあると考えます。
ひとつは戦争末期の悲惨な体験を描いた「不幸な子ども」型。
もう一つは、戦争に懐疑的、批判的な眼を向ける人物を視点にした「立派な非国民」型です。
 
「不幸な子ども」型の例として筆者が挙げるのは、野坂昭如『火垂の墓』。そして「立派な非国民」型の筆頭は妹尾河童『少年H』



『ぼんぼん』(1973)四部作は、そのいずれのタイプとも異なっていて、
その差異こそが、この作品に「児童文学としての強靭なたたずまい」をもたらしている、と斎藤は論じます。




まず、作品のコンセプトが「家族の物語」であること。
戦争であろうがなかろうが、少年は少年の日々を生きている。家族一人ひとりの喜びや悩みは、あくまで個人の領域にぞくすること。これは重要なポイントである」
と斎藤は述べます。

次に、戦争の描き方が「複合的」であること。
筆者は、日米開戦の場面と、空襲当日の場面を『少年H』との比較を試みます。

日米開戦の場面。
少年Hは小学5年生にもかかわらず社会状況を的確に判断しています。開戦前から日米交渉の行方に関心を持ち、アメリカと開戦するには国力が不足すると冷静です。
一方『ぼんぼん』では、洋たち家族に開戦を伝えるのは、一家の用心棒である元やくざの佐脇さん。事態を全く理解しない洋たち一家に、佐分さんは開戦を「やくざのでいり」に例えて話し、家族との頓狂なやりとりが続きます。
「この場面は出色である。戦争と『やくざのでいり』の錯綜。『~だす』という断定的な語尾のリフレインがすもしだすユーモアとトホホ感…」
 
空襲当日の場面。
少年Hでは、正気を失った母を必死でかばい、またしても沈着冷静に判断して脱出の突破口を開く姿が描かれます。
「なんと立派な少年H。りりしすぎて涙が出そうだ」
一方『ぼんぼん』では、死に直面した家族の動揺ぶりがなまなましく描写されます。母が兄弟をどやしつけ、必死で避難を促すものの、本人は無意識に小脇におひつをかかえ、兄の洋次郎はレコードアルバムを抱え込んでいる。そんなにきつく抱え込めばもろいレコード盤は割れてしまうかもしれなかったのに、本人はそれに気付かず、たた落とすまいと考えているのだった…
 
この違いについて、斎藤は次のように説明しています。
『少年H』と『ぼんぼん』の違いは、単線的と複合的の違いであり、
前者が提示するのは戦争の「情報」だが、後者が描くのは戦争の中を生きる「人々」の姿である。
『少年H』にも、当然家族や個人は描かれているけれど、主要人物の父やHの価値観と行動はあまりに「戦後民主主義的」で、再現ドラマの主役のようだ、と述べています。
 
ではなぜ『少年H』は、ミリオンセラーになったのか。
筆者の考えるその理由は、人々が求めているのは文学ではなく情報だから。
戦争が遠くなればなるほど、人々は一般論としての情報を求め、個別、具体的な人間の物語を面倒くさく感じるようになる…
辛辣ですが、鋭い指摘です。
直線的、単線的、情報的な物語は、飽きられやすい。情報的な物語に傾斜した「戦争児童文学」も飽きられた。その結果が、右翼的言説、歴史修正主義の台頭ではないか、と述べるのです。
 
『ぼんぼん』は、ミリオンセラーにこそならなかったけれど、「児童文学としての強靭なたたずまい」を持っている。
物語には外からの批判的な目が必要で、戦争児童文学の多くはそれを戦後民主主義的価値観に求めた…『少年H』が、主人公をとんでもない神童(立派な非国民)として描いてしまったのは、現代から見た批判的視点を、主人公に丸ごと担わせてしまったからだ、と筆者は考えます。
一方『ぼんぼん』はそうはせず、批判的視点を元アウトローの佐脇さんに託すことで、主人公や家族、時代に翻弄される人々を、当時の「日常を生きる個人」として、ありのままに、いきいきと描くことに成功している…と。

そして日常を生きる個人の死を美化しない。
『ぼんぼん』では、佐脇さんも含む多数の死が、実にあっけなく描かれていることが指摘されます。
「死が美化された時代だからこそ、彼らのあっけない死は、読む人に言葉にならない喪失感とむなしさを印象付ける。戦争じゃなくても人は死ぬし、戦争のさなかでも人は結構楽しくのんきに暮らしている。有事は平時のなかにあり。日常が少しずつ少しずつ侵されていくが戦争の本当コワイところなのだ」
斎藤は言及していませんが、「戦争児童文学」のもう一つのタイプである「不幸な子ども」を描く作品にも、戦中のそれとは逆の見方ながら「死の美化」があったのではないか、とネコパパは思い至ります。「悲惨な犠牲者」という見方も、描き方次第で、ひとつの「美化」になる危うさをはらんでいるのではないでしょうか。

今江祥智の盟友であった上野瞭は『ぼんぼん』を評して
「これは『昨日の物語』ではなく『昨日』を舞台にした『今日の物語』なのである」(『今江祥智の本』第5巻 解説)と述べていました。
いつだろうと、人々は今日=日常を生きるもの。
そして日常は、いつも個別的、複合的なものです。
「不幸な子ども」「立派な非国民」もいたでしょうが、それがその時代を代表するもの、時代のイメージを形成するものと見るのは、あまりに単純です。単純な見方というのは陳腐化しやすく、飽きられやすく、そして、利用されやすい。
個別と複合を失った物語が単純な「情報」に変化してしまうことを今江は知っていたのでしょう。
だからこそ『ぼんぼん』は、作者の想定を超えて大長編となった。ならざるをえなかった…そう思います。

ネコパパの、「戦争児童文学」に対する苦手意識も、もしかすると「情報」を「文学」と思って読んでしまうことの違和感、または部分を全体と思い込まされる圧迫感から生まれていたのかもしれません。
 
最後に斎藤は、今江の強靭な児童文学を支えたものは子どもたちへの圧倒的な信頼感」である、述べています。
「今江祥智の作品は読者である子どもを子ども扱いしない。佐脇さんが洋を一人前の大人のように扱うのといっしょ。ストレートなメッセージを発しなくても、子どもは必ず理解する。今江はそう考えていたのではあるまいか。…『ぼんぼん』は、わたしたちに複合的な眼差しを持つことを教える。それは命が大事と百回叫ぶよりずっと有効な、明日を生きるための術となるだろう」

思い出すことがあります。
あるとき、今江先生はネコパパたちを前に、こんなお話をされたのです。
「ほんとうにいい本は、大人が薦めたりするもんやない。僕は、自分が読んでほんとうに素晴らしいと思った本は、みんな押し入れに隠してしまいたい。子どもはきっとそれを見つけ出して、隠れて読むんや。貪るように…本当の読書というのはそんなもんやろ…」

読者をとことん信頼する。
それは作家という職業の基本姿勢と思うのですが、
こと児童文学の分野では、そう単純にはいきません。

だって大人が、子どもに向かって書くのです。
「読者を啓発しよう」「教え導こう」という意識との葛藤は、避けられないでしょう。
教師でもあった今江祥智が、その葛藤を克服していたということも、きっとないはず。
それでも彼は、生涯、「子どもに向かって背伸びを続けた」作家ではなかったか…そんな気がするのです。

私が今江作品に傾倒したのは、そんな姿勢に、どこか共感するものがあったからかもしれません。


 
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コメント

コメント(2)
No title
残念ながらご紹介の「ぼんぼん」という本は読んだことがありません。
しかし、記事を拝読しておりまして、私が評論家と称する人たちの中で信頼する数少ない一人である斎藤美奈子さんの言説には強いインパクトがありました。
私が「少年H」を読んだときに感じた違和感が、鋭く解説されている感じがします。

親、特に市井の人であった母親や母方祖父母から聞かされた戦時中の話は、緒戦の勝利に浮かされて提灯行列に喜々として参加していたこと、しかし下宿していた学生さん(どうやら母親の初恋の人)だけが渋い顔をしていたというものでした。

児童文学にかぎらず、戦争文学は、ややもすると被害者意識を強く感じさせるものが多く、もう一方でテレビの構成作家上がりの人間が書いた安直なお涙頂戴物語にころりと騙される読み手の問題もありそうです。

大人は世評に惑わされることはあっても、子供は自分が面白いと思ったものを素直に見つけます。
それは「ちびまる子ちゃん」を最初見たとき、親はその面白さは理解できませんでしたが、まだ小さかった子供は当初から熱心に読んでいたときに感じました。

gustav_xxx_2003

2016/09/01 URL 編集返信

No title
グスタフさん、「ぼんぼん」はジャンルの枠を超えた面白い作品です。機会があればお読みになって損はありませんよ。
そして、この作品は児童文学にも「大長編」「大河小説」という形がありうることを世に知らしめた作品です。これがなければ「太陽の子」も「北の国から」も「ひげよ、さらば」も生まれることはなかったかもしれません。
現在の児童図書業界は混迷していますが、子どもたちは基本的に読むことが好きだし、骨のある作品の好きな読者も確実に存在します。
それをちゃんと届けるのは、骨の折れることですが…

yositaka

2016/09/01 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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